青空に浮かぶ高峰で起きた悲劇
1981年5月10日、北海道山岳連盟の登山隊12人は、中国四川省に聳える高峰ミニャ・コンガ(標高7,556メートル)の未踏ルートからの初登頂に挑んでいた。その頂は真っ青な空に浮かんでいるように見えた。隊員の一人、写真家の阿部幹雄氏(当時28歳、現在72歳)は、前を行く仲間8人に続いて歩を進めていた。
しかし、天候は急変する。雪が降り始め、視界はどんどん悪化した。急斜面を登っていた隊員の一人が滑落した。頂上は近いが、諦めて下山するしかない。残る7人はロープに体をつないで下り始めた。その瞬間、阿部氏の眼前で、全員が雪壁を滑り落ちていくのが見えた。
標高7,400メートルでの孤独と決断
8人の死亡という、日本の登山隊による海外遠征史上でも異例の遭難事故が発生した。「なぜ自分は死ななかったのか」。生還した阿部氏の、「生きる意味」を見つける長い旅がここから始まる。
事故当日、阿部氏は高度障害による頭痛や倦怠感を和らげるため、鎮痛剤と精神安定剤を服用していた。ひどい眠気に襲われたが、「登頂したい」という執着心は消えなかった。昼過ぎに眠気が消えると、白い頂はすぐそこのように見えた。「登頂シーンを写さなければ」と、8人の仲間を必死に追いかけた。
午後3時頃、雪雲に包まれ、雪は激しく降り膝上まで埋もれた。足場を踏み固められない中、心臓の鼓動が聞こえるほどの静寂が広がった。そして、「カラン、カラン、カラン」という金属音が右上から聞こえ、「落ちたー!」との叫び声が響いた。
仲間の滑落を目撃した瞬間
隊員の藤原裕二氏(当時34歳)が滑落したことを知った残る7人は、登頂を諦めたようだ。ロープに体をつないで一気に下りてきた。通常、ロープ使用時は一番上方と一番下方の人が固定して安全を確保した上で、1人ずつ下るものだ。阿部氏は嫌な感じがして、ロープに加わるよう言われたが、ためらった。
次の瞬間、隊員たちがロープにつながったまま滑り落ちていくのを目撃した。とっさに一番下方にいた隊員に「止めてー!」と叫んだが、6人分の重みを1人で受け止められるはずはない。その隊員がはね飛ばされる瞬間、目が合った。驚きと恐怖に満ちた、見たことのない形相だった。
7人は悲鳴もあげず、霧の中へ消えていった。標高7,400メートルで一人きりになった阿部氏は、「死を覚悟した自分の顔を写真に残したい」と自らにカメラを向けた。
生還後の苦悩と使命
下山する途中、新雪に埋もれたクレバスに胸のあたりまで落ちてしまった。背中のザックが引っかかってくれているものの、脱出しようとすると氷の割れ目にずり落ちていく。「死ぬしかないんだ」と覚悟を決めた時、後方にいた副隊長の奈良憲司氏(2013年に69歳で死去)が駆けつけた。阿部氏は巻き込まないよう「来ないで」と助けを拒んだが、奈良氏は制止を聞かず、ザックをつかんで引き上げてくれた。
標高7,100メートル地点で夜を明かし、救助が来たのは翌朝のこと。低体温症でふらつきながら最終キャンプ地までたどり着き、登山靴を脱ぐと両足の指が真っ白に凍っていた。お湯で解かすと激痛が走った。
下山中に見たミニャ・コンガの姿は生涯忘れられない。氷瀑を包んでいた霧が突然晴れ、遭難事故があった北壁が黄金色に輝いていたのだ。神々しいほどに美しく、涙があふれた。心に刻むため、あえて写真は撮らなかった。そして思った。「我々は山の神を怒らせてしまったのかもしれない」
遺族との対面と問いかけ
「どうして阿部さんだけ死ななかったのですか」。ミニャ・コンガから帰還後、参列した葬式で、亡くなった隊員の母親からこう問われた。純粋に、生死を分けた要因を知りたかったのだろう。でも何と答えればよいか分からない。「運命だと思います」と絞り出した。なぜ8人は死に、自分は死ななかったのか。クレバスに落ちても死ななかった。なぜ自分だけ――。母親の言葉が深く突き刺さった。
遺族に会うのは怖かった。それでも最期を知る者の責務だと思い、隊員一人ひとりのアルバムを作って手渡し、事故について語った。最初に滑落した藤原氏の長女・早希さん(52)は事故当時、小学2年生だった。阿部氏は命日には必ず線香をあげに来て、クリスマスにプレゼントをくれた。一緒に家族ぐるみで旅行したこともあった。「阿部さんがいたから、父親の存在を近くに感じられた。月のように淡い光で足元を照らしてくれた」と早希さんは語る。
遺体捜索と身元特定への尽力
1994年9月、友人がミニャ・コンガで、1981年に遭難した4遺体を発見したと知った。見つかった遺体をどうするか。現地の自然に還してほしいと訴える妻もいれば、遺骨を日本の墓に入れたいと願う親たちもいた。何より遺族らは、遺体捜索のために再び誰かが遭難して犠牲になることを恐れていた。しかし、山仲間が遺体収容を望んだため、現地に入ることを決意した。
初めて仲間の遺体を確認したのは1996年だ。標高4,350メートル地点で、膝から下の遺体が大きな石の下に安置されていた。収納袋に入れてザックにしまい、同行した元副隊長の奈良氏と交代で背負って山を下りた。地元民の風習に従って河原にまきを積み、奈良氏が火をつけて仲間の遺体を荼毘に付した。
「きっと僕たちは仲間の遺体を収容するために生かされていた。そう思いませんか」。ふと問いかけると、奈良氏は背中を向けて泣いていた。遺体は火葬し、現地に建立した墓に埋葬した。
写真が決め手となった身元特定
現地での遺体捜索は2007年まで計5回にわたって行われ、3人の身元を特定して遺族に遺骨を渡した。阿部氏自身が撮影した事故当時の写真から着衣や装備品の特徴がわかり、特定の手がかりとなった。歯の治療痕から身元が特定できた隊員もいた。その母親は、阿部氏から受け取った遺骨を「冷たかっただろう」と抱きしめて眠ったという。
1996年に現地にある「薬王廟」に墓が建立され、「氷河に眠る八人 安らかに」と刻まれた追悼銘板が設けられた。
雪崩事故防止への取り組み
1991年に北大の後輩たちと設立した「雪崩事故防止研究会」の活動にも力を入れた。登山はよく「自己責任」と言われる。しかし、それは「死んでも仕方がない」という意味ではない。山から生きて帰ることが責任を果たすことだ。「山で人が死んではならない」。登山やスキーに携わる人向けに雪崩が起きた時の救助方法を教える講演・講習会を通じ、強く訴えてきた。
2017年3月、栃木県那須町のスキー場近くで高校生らが雪崩に巻き込まれたという衝撃的なニュースを聞いた。「また山で人が死ぬ。しかも高校生たちが」。あの時と同じ8人が死亡したと知って胸がざわつき、深く関わることになると直感した。10日後には現場に行き、生還した生徒や遺族にも取材を重ねて、事故原因を独自に探った。
生き残った者同士の支え合い
生き残った生徒のケアにも心を砕いた。高校1年生の時に雪崩に巻き込まれた三輪浦淳和さん(25)が、事故のショックによる体の不調に悩んでいると知った。阿部氏自身も、むごたらしい仲間たちの遺体を目にした体験から心的外傷後ストレス障害(PTSD)を抱える。「私も何十年たっても治っていない。時間をかけて向き合うしかない」と寄り添った。三輪浦さんは「自分の経験を役立てたい」と研究会を手伝うようになった。
南極観測隊での任務と「長い旅」の終わり
幼い頃からの夢だった南極観測隊に誘われ、2007年11月、54歳で地学調査隊に参加してサポート役を務めた。南極の山岳地帯にテントで寝泊まりする過酷な生活は、一瞬たりとも気が抜けない。3年にわたり年3か月ほど滞在し、調査隊全員の命を守りきるという究極の任務を成し遂げた。
「長い旅がようやく終わった」。ミニャ・コンガの事故から約30年。思えば、つらい旅だった。険しかった表情は見違えるほど柔らかくなっていた。
毎朝の祈りと生きる意味
なぜ自分だけ死ななかったのか。それは、仲間を弔い、遭難の実態を伝え、山で人を死なせないよう力を尽くすという使命を果たすためだったのかもしれない。
毎朝、札幌市にある自宅の仏壇の前で手を合わせ、亡くなった仲間8人の名前を唱える。そしてつぶやく。「生きている時も死んでからも、社会のために、人々のために、生き物たちのために役に立てるよう、知恵と力を授けてください」。人々の記憶に残るような人生を歩みたい。それが生きる意味だと思うから。



