猛毒フグを人はいつ食べ始めたのか?縄文時代の骨が示す起源と禁止の歴史
猛毒フグを人はいつ食べ始めた?縄文時代の骨が示す起源

五十にて鰒(ふぐ)の味を知る夜かな――。江戸後期の俳人、小林一茶もそう詠んだように、フグの味わいには独特の幸福感がともないます。しかし、一方で猛毒を持つこの魚を、人はいつごろ食べ始めたのでしょうか。フグ食の「はじまり」を探ろうと、各地を取材しました。

縄文時代のフグ骨、島根県で発見

まず向かったのは島根県。県庁所在地・松江市の中心部から車で東へ20分ほど走ると、宍道湖と中海をつなぐ大橋川の川幅が狭まるあたりに出ます。河川改修にともなってその北岸、現在「シコノ谷遺跡」と呼ばれる一画で、2018年5月から発掘調査が行われました。

背後の尾根から谷筋に沿って押し流された土砂が、何層にも堆積してできたこの遺跡からは、土器の破片や石器が大量に出土しました。そうした中から縄文時代早期後葉、7700~7500年前ごろを主体とするフグの骨が計19点見つかりました。分析にあたった愛媛大学法文学部の幸泉満夫准教授(考古学)は指摘します。

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「まだ未知の部分があるが、現在までに出土、調査されたフグ骨で、これらが最古に近いものと考えられる。この当時からトラフグやマフグなどを取っていたことがわかった」

シコノ谷遺跡から西へ車で約1時間の場所にある、出雲大社にほど近い「菱根遺跡」でも、同時期のフグ骨が「他の魚骨に比して驚くべき数量」(「出雲古文化調査団報告書」)出土しています。歯板だけでも55点にのぼるといいます。

フグの習性と縄文海進

ここでフグの習性をおさえておきましょう。トラフグは回遊する魚で、餌となるカニやエビなどを求めて黄海や渤海へと向かい、初春から初夏にかけての繁殖期に日本沿岸の浅い海へ戻り、産卵します。20度前後の水温に適応するのも特徴的です。

一方、現在は内陸に位置する両遺跡ですが、骨で出土したフグたちが元気に泳いでいた時代、世界的な温暖化に伴って海水面が上昇し、内陸奥深くまで海が入り込む、いわゆる「縄文海進」が起きていました。

「弓ケ浜半島は島が点在するような状況だったと推定され、シコノ谷遺跡のあたりは湾奥のような場所だったと考えられます」(廣江耕史・島根県古代文化センター特任研究員)。現在の宍道湖のあたりにも「古宍道湾」が形成され、菱根遺跡はその内湾に面していました。

加えて約8千年前ごろ、対馬暖流が形成され、日本海に流れ込むようになります。幸泉准教授は言います。

「今の宍道湖から中海にかけては当時、トラフグやマフグにとってうってつけの環境だった。産卵しに来た大きな親フグ、生まれ育った子どものフグをそのあたりで取り、食べ始めたのが、フグ食の起源だったのではないか」

焼いた痕跡が示すもの

そのうえで幸泉准教授が着目するのは、シコノ谷遺跡で出土したフグ骨のほとんど、菱根遺跡のものも3分の1ほどに、焼いた痕跡が見て取れることです。「なんでもかんでも焼いて食べていたわけではなく、毒のある部分を焼くことで無毒化しようとした可能性がある。それでも毒でかなりの犠牲者が出たのではないか」と推測します。

フグ毒はテトロドトキシンと呼ばれ、熱に強いため、焼いても分解されません。しかし、当時の人々は経験的に毒の少ない部分を選んで食べていたのかもしれません。また、フグの毒は肝臓や卵巣に特に多く含まれますが、トラフグでは皮にも毒があることが知られています。

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フグ食禁止の時代

その後、フグ食は長い歴史の中で禁止された時代もありました。戦国時代には、フグによる中毒死が相次いだため、一部の藩でフグを食べることが禁じられました。江戸時代に入っても、フグ中毒の危険性は認識されており、特に下関藩では厳しい規制が敷かれました。しかし、その美味しさから密かに食べ続ける人々もいたといいます。

明治時代になると、フグ食は一時全面的に禁止されましたが、その後、調理師の資格制度が整備されるなどして、安全に食べられるようになりました。現在では、フグ調理師免許を持つ専門家だけがフグを扱うことができ、中毒事故は大幅に減少しています。

フグ食の歴史は、人間と毒との長い闘いの歴史でもあります。縄文時代の人々がどのようにして毒を回避しながらフグを食べていたのか、その謎はまだ完全には解明されていません。今後の研究が待たれます。