空爆に怯えるイラン市民と幼き日の「トモダチ」の思い出
イラン空爆と「トモダチ」の思い出

幼き日の出会いと「トモダチ」の絆

幼い頃、私はよく父の仕事場についていった。父は店の玄関マットのクリーニング業を営み、郊外に洗い場工場を構えていた。昼間でも薄暗く、奥行きのある工場内には、「いらっしゃいませ」と書かれたマットが幾重にも山積みされていた。隙間の通路を巨大な迷路のように遊び回るのが楽しみだったが、奥に入り込むと居場所や出口を見失いそうな心細さも感じたものだ。

父は同業者とのつながりが広く、知り合いの工場へ手伝いに行く際には、私も必ずあとをついていった。当時、外国人が働く工場もあり、ある日、一人の若者が「コンニチハ」と気さくに声をかけてきた。細身で背が高く、日に焼けた肌に、大きく澄んだ目が印象的だった。笑うと白い歯が輝き、名前は「ハミッド」さんといい、イラン出身だと教えてくれた。

言葉を超えた交流と贈り物

ハミッドさんは来日して間もなく、日本語は簡単な挨拶と単語しか話せなかった。彼は小学生の私に日本語を教えてほしいと頼み、紙に「こんにちは」「ありがとう」とひらがなを書いては、「ハロー」「サンキュー」と二人で声を合わせて練習した。そのやり取りは妙にくすぐったく、無邪気に笑い合った記憶が今も鮮明に残っている。

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日が落ちかけた帰り際、ハミッドさんは一枚のTシャツを手渡し、「トモダチ」と陽気に笑った。緑色の派手な柄のそのシャツは、私にとって初めての外国人の友達からの贈り物であり、特別な出かけの際によく着ていた。後になって聞いた話では、ハミッドさんは日本語を学ぶために来日したものの、当時の湾岸戦争による中東の政情不安で帰国が難しく、留学ビザを更新しながら工場で軽作業のアルバイトをしていたという。数年後には日本語も上達し、イランに帰国したそうだ。

戦火に翻弄されるイランの現実

米国とイスラエルによるイラン攻撃から1か月が過ぎた。トランプ米大統領の発言や態度は一貫性を欠き、原油価格の高騰に怯える様子は、まるで迷路に迷い込み出口を見失っているかのようだ。イスラエルのネタニヤフ首相は、イラン体制の崩壊を望むとされ、軍事攻撃を決して手控えない姿勢を崩さない。

一方、イランの新たな最高指導者モジタバ・ハメネイ師は、戦火を中東全域に広げ、ホルムズ海峡を事実上封鎖し、中東の石油貿易を「人質」にとった。各国首脳も有効な停戦策を見いだせず、石油ショック再来への懸念が刻々と強まっている。イラン政府によれば、国内の死者は子どもを含め2000人に迫るという。

戦争の当事者とは誰か

戦争は災害や疫病とは異なり、人の手で無慈悲に命を奪う行為だ。その行方を決める指導者の発言や軍事作戦の推移に目が向きがちだが、戦争の当事者はシェルターに守られた権力者だけではない。昼夜を問わない空爆に怯え、抗えず望まない現実に、ただ天を仰ぐ無防備な市民こそが、真の当事者なのである。

東京では満開の桜の奥に青空が覗く。その空は遠くイランへと続いている。同じ空の下にいるトモダチ、ハミッドさんが無事であることを願わずにはいられない。心穏やかな日々が一日も早く戻ることを、切に祈っている。

(BS日テレ「深層NEWS」キャスターの回想に基づく)

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