普天間返還合意から30年、なぜ進まない? 辺野古移設の迷走と新たな懸念
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の返還に日米が合意してから、2026年4月12日でちょうど30年を迎えた。しかし、現在も普天間飛行場は米軍による使用が続き、周辺住民は騒音問題や水質汚染の疑いに悩まされている。なぜ30年もの歳月を経ても返還が進まないのか、その背景には複雑な経緯と新たな不安が横たわっている。
世界一危険な基地と返還合意の経緯
普天間飛行場は、那覇空港から車で約30分の沖縄本島中部、人口約10万人の宜野湾市の中心部に位置する米海兵隊の航空基地である。約2700メートルの滑走路を備え、オスプレイなど58機の航空機が配備されており、住宅地に囲まれた環境で頻繁に離着陸訓練が行われることから、「世界一危険な基地」と指摘されてきた。
返還合意の直接的なきっかけは、1995年に発生した米兵による少女暴行事件だった。この事件を契機に、長年にわたり米軍関係者による事件・事故が繰り返されてきた沖縄県民の不満が爆発。同年10月の県民総決起大会には8万5千人が集結し、日米両政府は日米安保体制を揺るがす事態と認識。1996年4月12日、基地負担軽減の象徴として普天間飛行場の返還合意を発表した。
合意内容は「5~7年以内」の返還を掲げたが、沖縄県内の他の米軍基地にヘリポートを建設する「県内移設」が条件として付された。この条件が、その後の計画迷走の根源となった。
迷走を繰り返す移設計画
県内移設の条件により、移設先は当初の嘉手納基地から「沖縄本島の東海岸沖」へと変更され、最終的に名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブが浮上した。1997年には名護市で市民投票が実施され、「反対」が過半数を占めたが、当時の市長は受け入れを表明して辞任。2002年には、住宅地から離れた辺野古沖合に軍民共用滑走路を建設する案で国、県、市の3者が合意した。
しかし、2006年に日米が合意した現行案は、住宅地に近い辺野古沿岸部を埋め立ててV字形滑走路を建設するもので、軍民共用案は事実上放棄された。これに沖縄県は強く反発し、計画はさらに複雑化した。
2009年の政権交代で誕生した民主党政権は「最低でも県外」移設を約束したが、移設先を見つけられず辺野古案に回帰。2012年末に発足した第2次安倍晋三政権は「辺野古が唯一の解決策」と強調し、移設工事を開始した。沖縄では、これまで辺野古移設を容認する知事はおらず、2014年以降の知事選では移設反対を掲げる候補が連続当選している。
遅れる工事と見通せない完成時期
防衛省は移設完了を「2030年代半ば以降」と見込んでおり、早くてもあと10年先となる。しかし、工事が計画通り進むかについては疑問の声が強い。最大の課題は軟弱地盤の問題だ。防衛省は辺野古北側の軟弱地盤改良のため、海面下70メートルまで杭を打ち込む計画だが、沖縄県は軟弱地盤が海面下90メートルまで広がる可能性を指摘。玉城デニー知事は「完成は不可能」と主張している。
さらに、2025年には地盤改良作業船が気象条件を理由に半年近く現場に入れず、杭打ちが停滞するなど、工事の遅延が続いている。これらの要因が重なり、返還時期の不透明さは増すばかりだ。
新たな懸念:「普天間は返ってこない」?
最近では、辺野古移設が完成しても普天間飛行場が返還されないのではないかという懸念が沖縄県内で広がっている。2026年2月に判明した米国防総省の文書には、辺野古完成後も代替となる「長い滑走路」が選定されるまで「普天間の施設は返還されない」との見解が示されていた。
2013年の日米合意では、普天間返還の条件の一つとして、緊急時における民間空港の「使用の改善」が盛り込まれているが、その具体的な内容は明確にされていない。辺野古で計画されている滑走路は1800メートルと短く、米軍内からは軍事的欠陥を指摘する声が以前からあった。米政府監査院も2017年、辺野古の滑走路は「特定の航空機には短すぎる」とし、代替滑走路の探求を勧告している。
沖縄本島で3000メートル級の「長い滑走路」を有するのは那覇空港のみであり、沖縄の交通・経済の中枢として民航機と航空自衛隊が共用している。木原稔官房長官は「辺野古移設完了後も普天間が返還されない状況は想定していない」と述べているが、米軍が那覇空港の使用を頻繁化しようとしているのではないかという地元の警戒感は強い。
返還合意から30年が経過した今、普天間飛行場の返還は依然として遠い目標のように見える。県内移設という条件がもたらした迷走、技術的課題、そして米軍の新たな要求が重なり、解決への道筋は不透明なままである。沖縄県民の負担軽減という当初の合意の精神は、時間の経過とともに霞んでしまっている。



