ホテル従業員と負傷客の奇妙な邂逅
2026年4月19日、連作小説「スモーキングルーム」第206回が公開された。千早茜氏による本作は、ホテル従業員「金ボタン」と奇妙な宿泊客たちの交流を描く物語だ。今回のエピソードでは、金ボタンが「猫背」と呼ばれる男性客の負傷を発見し、救急処置を手伝う場面から始まる。
血痕と割れたグラスの謎
猫背は「救急箱さえあればいい。人は呼ばなくていい」と繰り返し、金ボタンを部屋に招き入れた。部屋には割れたワイングラスが散乱し、最も大きな破片には血の指紋がべったりと付着していた。金ボタンが片付けを申し出ると、猫背は驚くほど手際よく自身の傷を消毒し、包帯を巻き、鞄から錠剤を取り出して飲み込んだ。
その手際の良さに感心した金ボタンが「どちらの病院にいらっしゃるのですか?」と尋ねると、猫背は体を強張らせて「今は軍にいる」と呟いた。さらに「勤務地は収容所だ」と続ける。
収容所での「選別」研究の告白
金ボタンが「収容所ですか」と胸を撫で下ろすと、猫背は奇妙に言葉を繰り返し始めた。「でも、私は患者を診てはいない。医師なのに、傷も病も診てはいない。研究だ。研究をしている。そのための選別だ」
彼の説明によれば、その研究は「必要な人間と、不必要な人間」を選別し、労働力になる者だけを残すこと。さらに「障害もなく、病気にも強い国民を作らなくてはいけない」という国家目標のため、胎児研究に従事しているという。猫背はかちかちと歯を鳴らしながら「私は悪くない。だから、私を責めるな」と訴える。
倫理と国家の狭間で
この衝撃的な告白は、個人の倫理観と国家の要求の間で引き裂かれた一人の軍医の苦悩を浮き彫りにする。金ボタンはただ静かにその言葉に耳を傾けるしかなかった。物語の背景には、以下のような要素が暗示されている:
- 収容所における非人道的な研究の実態
- 「強い国」を目指す国家イデオロギーの影
- 医師としての使命と研究任務の矛盾
エピソードの終盤では、モップを持った「煙」が玄関ホールで猫背の血痕を掃除する様子が描かれ、ホテルという閉鎖空間で繰り広げられる人間ドラマにさらなる深みを加えている。千早茜氏は、わずかな会話と動作から登場人物の内面と社会的背景を鮮やかに描き出した。



