江戸の役人社会における緊迫の対峙
時代小説『惣十郎浮世始末』の第225回が、江戸の役人社会における緊迫した一幕を描き出している。主人公の惣十郎が、例繰方同心を務める悠木史享から怪僧・日啓に関する話を聞きに行った際、同じく例繰方に所属する駒井伴之輔と再会する場面から物語は始まる。
高圧的な態度を見せる駒井伴之輔
駒井伴之輔は、かつて惣十郎に「無駄話をするな」と厳しく叱責した人物である。しばらく会っていなかったため存在を忘れかけていたが、未だに例繰方に籍を置いているようだった。二十七、八歳にはなっただろうその男を、惣十郎はつい無遠慮に見つめてしまう。
「なんじゃ、その目は」と、駒井はすぐに歯を剥いて反応した。その瞬間、同行していた崎岡が突然ガバッと平伏するという驚くべき行動に出るのである。
「申し訳ございません。騒がしくしたつもりは毛頭ございませんで。ただ、ご迷惑になっておりましたらこの通り、お詫び申し上げます」と崎岡は丁寧に詫びを入れた。この対応に、駒井は勢いを削がれたように見え、睥睨はするものの叱責は控えることになった。
役所内の複雑な権力関係
崎岡はさらに、「目当ての記録が見付かりましたゆえ、ひと通り目を通しましたらすぐに退散いたします。どうかご容赦を」と続けた。これに対し、駒井は「そもそも廻方がなんの用じゃ。擬律もろくろく知らんのだから、訴訟はおぬしらとは一切関わりなかろう」と高飛車な態度で応じる。
惣十郎が「お言葉ですが、私どもは吟味方の志村様の命で……」と言いかけると、崎岡は素早く目で制止した。そして、「私ども外役は、どうもここが鈍くなりますもので」と言いながら自分のこめかみを人差し指でつつき、「時折例繰方にて作られる高尚な文書に触れて、頭を鍛えておりまする」と歯の浮くような追従を重ねたのである。
崎岡の巧みな処世術
この過剰な追従に惣十郎は眉をひそめたが、駒井はまんざらでもなさそうな様子で、「複雑な事件も多いから、おぬしらが読んでもわからんだろうが」と顎を上げ、「用が済んだら、元の通りに戻しておけよ」と言い捨てて詰所から出ていった。
駒井が去ると、崎岡は下げていた頭を上げるや、「青二才が」と吐き捨てた。あまりの変わり身の早さに、惣十郎は無駄に鬢が豊かな崎岡の横顔をうんざりとした気持ちで見つめることになる。
「見事なまでの裏表だね」と惣十郎が言うと、崎岡は悪びれもせずに返答した。「あの手の野郎はね、なんにも考えずにただ頭下げときゃいいんだよ。お前、抗弁しようとしたろ。やめとけよ。ああいう手合いは言葉が通じねンだから、言うだけ無駄だ。こっちの気骨が折れるだけさ」
この会話から、江戸の役人社会における処世術の一端が明らかになる。崎岡の行動は、権力者に対しては表面だけでも従順な態度を見せ、内心では別の考えを持つという、複雑な役所内の人間関係を生き抜くための知恵だったのである。
時代小説としての深み
木内昇による『惣十郎浮世始末』は、単なる時代劇ではなく、江戸の役人社会の実態を細やかに描写する作品として評価が高い。第225回では、役所内の階級関係や、下級役人たちが上役に対応する際の駆け引きがリアルに描かれており、読者に深い共感を呼び起こす内容となっている。
惣十郎の正直な反応と、崎岡の計算された対応の対比が、この回の見どころの一つだ。役人社会という閉鎖的な環境の中で、それぞれがどのように自分を保ちながら生きていくのかという普遍的なテーマが、江戸時代の設定を通じて浮き彫りにされている。