静寂の森を抜けて
金ボタンは騒がしく殺気立った街の喧噪を後にし、時間通りに来ない列車に見切りをつけて歩き出した。葉の落ちた森の中へと足を踏み入れると、周囲は深い静けさに包まれた。白く凍る自分の息だけを視界の中心に据えながら、一歩一歩を確かめるように進んでいく。
ホテルのテラスでの出会い
ホテルの裏側へと回り込むと、テラス席に一人で座る女性客の姿が目に飛び込んできた。彼女は羽飾りのついた鮮やかな紫色の帽子を被り、毛皮のコートに耳まで埋もれるようにして、凍りついた湖をじっと見つめていた。その佇まいには、何かしら物思いに耽っているような雰囲気が漂っていた。
煙がテラスに現れ、生クリームがたっぷりと乗った温かい飲み物をテーブルにそっと置いた。金ボタンの鼻には、コーヒーの芳醇な香りとかすかなオレンジの甘い香りが流れてきた。
「オレンジリキュールが入っています。外は冷えますからね。うんと甘くしておきました」
煙の言葉に、女性は歌うように軽やかに笑った。「春はまだかしら」と彼女が呟くと、煙は何も答えずにほほえみを浮かべただけだった。
別れを告げる決意
「今日が最後だっていうのに、この寒々しい景色」と女性は言葉を続けた。紫色の長手袋をはめた手で、孔雀が繊細に描かれたシガレットケースを開ける。彼女は、かつてこのホテルの屋根裏部屋で絵を描いていた画家の友人だった。その画家が流行り病で亡くなった後も、彼女は毎年このホテルを訪れては休暇を過ごしていた。恋人らしき男性が同伴することもあったが、ここ数年は一人で、甘い飲み物を片手にテラス席で湖を眺めることを好んでいた。
女性はファッションデザイナーとして成功を収め、自身のブランドも確立していた。一点物のドレスを顧客一人一人に合わせて完全オーダーメイドで仕立てるブランドは、社交界で高い人気を博していた。しかし、彼女の服の顧客のほとんどは裕福なJであり、その状況が変化しつつあった。
「お店を閉めることにしたの。お得意さまが国外に行ってしまって、もうお針子たちに充分なお給料を払えないのよ。こういう贅沢な時間はもうお終い」
一流の接客の真髄
彼女の手元でライターが乾いた音を立てた。煙はポケットからマッチを取り出し、流れるような優雅な仕草で火を点け、橙色の小さな炎を女性の細い煙草の先端へと運んだ。
女性はふうっと煙を吐きながら、「ほんとうに不思議」と赤い紅で彩られた口元をほころばせた。「わたし、男の人に火を点けてもらうの、若い頃から嫌いだったのよ。あの人にだって決して点けさせなかったのに。やっぱり一流の接客は違うのね。あなたは特に、男性でも、人でもないみたい。その銀髪のせいかしら。雪の精? 寒くないの?」
凍てつく湖の畔で交わされる会話には、過去の思い出と別れの決意、そして一流の接客が持つ独特の温もりが静かに息づいていた。金ボタンはその情景をそっと見守りながら、森の静寂とテラスのわずかな温もりの対比を感じ取っていた。