福山空襲から80年、元副館長が語る戦争の非情と平和の尊さ
1945年8月8日、広島県福山市は米軍による大規模な空襲に見舞われました。この日、判明しているだけでも355人の命が奪われ、市街地の約8割が焼失する壊滅的な被害を受けました。当時4歳だった北村剛志さん(85)は、80年が経過した今も、あの日の記憶を鮮明に覚えています。
空襲の夜、焼け落ちる街を目撃
北村さんは、縁故疎開で福山市の伯父宅に預けられていました。夜中に伯母に起こされ、近くの川へ逃げた際、福山市中心部から10キロ離れた場所でも、山々の上が真っ赤に染まる光景を目撃しました。大人たちがおびえて言葉を発せずにいた様子が、今でも印象に残っていると語ります。
空襲は午後10時25分頃から約1時間にわたり、米軍爆撃機91機が焼夷弾5701発(556トン)を投下。軍事施設や軍需工場が標的とされ、当時の人口約5万8000人のうち、約1万戸の家屋が焼失しました。この惨事は、広島への原爆投下からわずか2日後、終戦の1週間前に起こりました。
父を戦争で失った悲しみ
北村さんの父は呉海軍工廠に勤務していましたが、1944年夏にフィリピンへ出征し、戦死しました。父との最後の記憶は、出征直前に一緒に入った風呂で蛍が飛んでいた光景です。父は末の妹が生まれる前に出征し、一度も娘を抱くことができませんでした。戦後、届けられた骨つぼには「英霊」と書かれた紙切れ一枚だけが入っていたという非情な現実に、北村さんは胸を痛めます。
終戦後、母らが呉市から福山市へ引っ越してきて家族が再会できた時は、ホッとした気持ちになったと振り返ります。当時は皆が貧しく、戦争で家族を失った友達同士で学用品を貸し借りするなど、支え合って生きていた時代でした。
平和の尊さを次世代へ伝える
戦後80年が経過し、北村さんは若い世代にメッセージを送ります。「日本で戦争が一度も起こらなかったからこそ、何不自由なく生きられる幸せを認識してほしい」と語り、ウクライナ戦争を例に、いったん始まった戦争を収拾する困難さを指摘します。対立を引き起こさず、協調して生きる道を考える重要性を訴えています。
定年退職後、北村さんは福山市人権平和資料館で約10年間勤務し、福山空襲の企画展や証言活動に携わりました。資料館では空襲だけでなく、戦争中の人々の生活ぶりも紹介し、展示品を通じて当時に想像を巡らせ、現代の恵まれた生活を実感してほしいと願っています。
北村さんは広島大学卒業後、小学校教員として児童に優しく接することを心がけました。退職後も広島大学大学院で教育心理を学び、平和教育に尽力しています。戦争の記憶を風化させず、平和の尊さを伝え続けることが、彼の使命です。