1955(昭和30)年5月、濃霧の瀬戸内海で旧国鉄の宇高連絡船「紫雲丸」が別の連絡船と衝突し沈没、修学旅行中の児童・生徒100人を含む計168人が死亡した事故から11日で71年が経過した。この日、高知市の南海中学校、愛媛県西条市の庄内小学校、そして現場海域を見下ろす高松市の高台にある西方寺で追悼行事が営まれた。
南海中学校での追悼式
高知市の南海中学校では、犠牲となった生徒28人の名前が刻まれた慰霊碑の前で追悼慰霊式が執り行われた。当時の同級生約20人や遺族、南海中の全校生徒、周辺の小中学校の児童・生徒ら計約220人が参列し、献花と黙禱で犠牲者を悼んだ。
式では、南海中生徒代表の森下路夢さん(2年)が「この出来事を胸に刻み、これからも一日一日を大切に生きるとともに、自分や周りの人の命を大切にする行動を心がけたい」と誓いの言葉を述べた。
紫雲丸事故で同級生を亡くした山本元子さん(86)は生徒たちに向けて、「事故を語り継ぎ、命の大切さを学び、ご自分を大切に、そして周りの方も大切にしっかりと生きてください」と語りかけた。
広瀬啓二校長は、2024年7月に同校プールを借りた水泳授業で長浜小4年の松本凰汰さん(当時9)が溺死した事故に触れ、「凰汰さんのご冥福を改めてお祈りするとともに、紫雲丸事故とこの身近に起きた悲劇を私たちの安全への誓いとして、二度と同じ過ちを繰り返さない学校作りを地域とともに進めていく決意です」と述べた。
参列した池田千鳥さん(85)は、事故で丸太につかまって漂っているところを小さな漁船に救助された経験を語り、「ものすごくつらい思い出で普段は忘れようとしているけど、あの記憶は鮮明に残っている。隣に住んでいた同級生も事故で亡くなった。自分の足で歩けるうちは、毎年ここに来て追悼したい」と話した。
庄内小学校での「命について考える集会」
愛媛県西条市の庄内小学校では「命について考える集会」が開かれた。同校の全児童と近くの河北中学校の生徒ら計約120人が参加し、花束や千羽鶴を慰霊碑「みたまの塔」に手向け、黙禱を捧げた。
同小によると、事故当時、紫雲丸には6年生77人と引率教諭4人、保護者2人が乗船。そのうち児童29人とPTA会長の計30人が亡くなった。事故翌年、校庭の一角に30人の名を刻んだ慰霊碑「みたまの塔」を建立し、毎年集会を開いている。
この日、当時事故に遭った早野千重子さん(82)も参列した。早野さんは同級生とともに高松桟橋から紫雲丸に乗り込み、船室に入って間もなく「どーん」という大きな衝撃を受け、友達2人と手をつなぎ甲板に出たところ、滑り台のように傾いた甲板を滑って海へ投げ出された。海底に広がる白い砂地を両足で蹴って海面に浮かび上がり、ひっくり返った救命ボートにつかまって助けられた。早野さんは「恐怖とずぶぬれになった寒さでがたがた震えていました。沖縄の船の転覆事故や福島のバス事故で生徒が亡くなる最近のニュースを見ると、子どもの安全を守るのは大人の義務だと改めて思います」と語った。
西方寺での慰霊法要
事故現場を望む高松市西宝町3丁目の西方寺の境内には、遺族会が建立した慰霊碑(観音像)がある。この日は川田邦博住職(68)が碑の前で読経し、遺族や関係者ら7人が参列した。
事故で父親を亡くした高松市香川町大野の呉服商、岩部芳雄さん(78)は、「父は子煩悩で、3男坊の私は本当にかわいがってもらった」と振り返る。事故当時、岩部さんは小学2年生。「あの日は朝起きたら霧がひどく、もしかしたら父親が無事帰ってこないのではないか、と嫌な予感がした。船だけでなく、交通機関は濃霧や荒天時は運行してはいけないと強く訴えたい」と話した。
川田住職は「事故後、多数の犠牲者を出す海難事故が起きていないのは、観音様が航路の安全を祈ってくださっている功徳の一つだと思う。来年以降も慰霊祭を続けたい」と述べた。



