ネット開国に挑む鈴木幸一<7>就職 生産現場訪れ学ぶ
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大学に入ると、ラテン語の授業に出席し始めたりしたが、生来の怠け癖は変わらず、すぐにいいかげんな日々に戻った。当時は学園紛争で休講が続き、生活の中心はアルバイトだった。妻と出会ったのもその頃で、卒業後に結婚した。

就職と日本能率協会

結婚後の1972年、「正業につくべきだ」との声もあり、新聞の求人欄で見た社団法人日本能率協会の「研究開発要員」の募集に応募した。「社団法人は暇に違いない」という友人の言葉に背中を押された形だ。受験会場には大勢いたが、なんとか採用され、それが社会人としての第一歩となった。

日本能率協会は戦時中の1942年、軍需産業の向上のため、商工相で後に首相となる岸信介が設立した。戦後は疲弊した経済を再建するため、産業の基盤整備と技術者の養成に転換した。

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現場での学び

私の仕事は工場に行って指導することだったが、現場の人とは作業に対する知識の厚みが違って、逆に教わることばかりだった。ものづくりの知識が全くないため、「食うためには頑張らないと」と、早稲田大学理工学部の夜間教室に午後7時頃から通って生産管理などを学んだ。しかし、にわか知識であるため、指導現場では相手にも「鈴木先生、この仕事あまり長くやってないね」と見透かされる始末だった。それでも熱意だけは伝わったのか、「勉強していってください」と、よく酒を酌み交わした。

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