川崎大空襲から81年、焼夷弾の恐怖を語り継ぐ渡辺暉夫さん
1945年4月15日、神奈川県川崎市を襲った川崎大空襲から81年が経過した。当時3歳だった渡辺暉夫さん(84歳)は、今も左足首に残るやけどの痕と共に、あの夜の記憶を鮮明に語り継いでいる。「闇の中、一瞬目の前がオレンジ色に染まった」と振り返る渡辺さんは、焼夷弾が目の前60センチに落下した瞬間を、戦争の恐ろしさとして後世に伝え続けている。
3歳の記憶に刻まれた空襲の夜
渡辺さんは川崎区中島の八幡神社近くで母と1歳の弟と暮らしていた。父はコールタール工場を営んでいたが、2度目の召集で不在だった。空襲警報が鳴り、母に起こされた渡辺さんは防空頭巾をかぶせられ家の外へ。灯火管制で暗闇の中、海の方向から敵機が接近するのが見えたという。
「親戚から、私の60センチくらい前に焼夷弾が落ちたと聞きました。『暉夫ちゃん、あと2、3歩前に出てたら生きてないよ』と言われました」と渡辺さんは語る。噴出した油脂がモンペの左足首に付着して燃えだしたが、近所の女の子が手ぬぐいではたき、もみ消してくれたという。焼夷弾は家にも2、3発落ちていた。
焼け野原となった街と生き延びた人々
記憶が再開した時、渡辺さんは弟をおぶった母と共に歩き始めていた。200メートルほど東の池に着き、母がバケツで防空頭巾に水をかけてくれたが、すさまじい炎と熱風ですぐに乾いてしまった。「とにかく熱かった。足のやけどの痛みより、恐怖心のほうが強かった」と当時の心境を振り返る。
朝まで周りの人と水をかけあい、家に戻ると完全に焼け落ち、何も残っていなかった。地面には降り注いだ焼夷弾の金属の筒が何本も突き刺さり、近所で防空壕に入った人々はその中で命を落としていた。神社も焼失し、街は見渡す限りの焼け野原。遠くに市役所の時計塔だけが残っていたが、実際は迷彩柄に塗装されていたものが、渡辺さんには白く輝いて見えたという。
戦後を生き、出版業で平和を発信
群馬県の知人宅に身を寄せ、8月に終戦を迎えた渡辺さん。秋には伊豆大島の工兵隊に行っていた父が帰還し、戦争が終わる前から千葉県の病院に入院していたことを知った。「帰る船がボカチン食らって沈み、測量用の竹ざおにつかまって運良く流れ着いたそうです」と父の体験も語る。
川崎に戻り立教大学を卒業後、出版業に携わった渡辺さんは、2011年の福島第一原発事故後、大学でウラン化合物を扱った経験を買われ、原発の危険性を指摘する書籍を出版。昨年5月の自著では空襲体験に触れ、「竹やりやバケツリレーの訓練も何の役にも立たなかった。戦争のときも福島原発事故のときも、政治家も官僚も誰も責任を取ろうとしなかった」と記した。
「国は国民を守らない」という現実
渡辺さんは空襲当時、軍が住民に消火を義務付けて避難を認めず、被害を拡大させた点を疑問視する。民間の戦争被害者に軍人のような補償がないことにも触れ、「救済法ができれば、戦争の抑止力になる」と訴える。足の黒いやけどの跡は小さくなったが、現在も残っている。
「今も国は国民を守っていない。使い捨ての駒なんじゃないか。戦争をなくしてほしいが、私たちが死んだらどうなるのか。やられた経験がない人には分からないから…」と渡辺さんは語り、戦争の記憶を風化させないことの重要性を強調する。81年経った今も、川崎大空襲の教訓は現代社会に重く響いている。



