織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変が起きた天正10年(1582年)6月2日、織田軍の司令官であった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、敵対する毛利氏の備中高松城(現在の岡山市)を水攻めにした詳細を記した書状が、山口県岩国市の岩国徴古館に寄贈された資料の中から確認された。この書状には、毛利側が直面した厳しい状況が克明に綴られており、歴史的な事件当日の出来事を記録した一次資料として、専門家の間で大きな注目を集めている。
書状の内容と意義
この書状は、毛利元就の次男である吉川元春が、重臣の今田経高宛てに戦況を伝えるためにしたためたもの。経高の子孫が2023年度と2024年度に寄贈した資料群の中から見つかり、東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授(日本中世史)が原本を精査し、その真贋と価値を確認した。
備中高松城は、両軍が最重要視した攻防の最前線に位置していた。書状には、秀吉軍が川の水をせき止めるなどして城を水で囲んだ状況が具体的に記されている。元春は城の近くに陣を敷いたものの、城内との連携がうまく取れず、秀吉軍とのにらみ合いが続いた。元春は経高に対して、「加勢も城内の士気を上げることにならず、日々心配している」「『安否の一戦』(決戦)を行うほかはない」と心情を打ち明けている。
史料としての価値
村井准教授は、「備中高松城の水攻めに関する同時代の史料は、これまで秀吉側が発信したものばかりだった。毛利側の視点から詳細に記録した史料は初めてと言え、和睦に応じざるを得なかった苦境が当事者自身の言葉で語られている点でも、史料的価値は極めて高い」と評価している。
秀吉が本能寺の変を知ったのは、翌日の夜頃とされている。その後、6月4日には毛利方との和睦交渉を開始し、城主の切腹を条件に和議を成立させた。そして、驚異的な速さで畿内に引き返し、明智光秀を討ち取った。
俗説への影響
本能寺の変を巡っては、「秀吉は光秀が謀反を起こすことを事前に知っており、毛利と密約を結んでいた」という俗説が長年ささやかれてきた。しかし、今回発見された書状は、秀吉と毛利の間で事前の密約が存在した可能性を否定する内容となっており、この俗説に一石を投じるものとして注目される。
この発見は、戦国時代の重要な転換点を理解する上で新たな光を当てるものであり、今後の研究の進展が期待される。



