サッカー日本代表の主将として長年チームを牽引してきた遠藤航(リバプール)が11日、代表引退を表明した。若くして世代別代表に選ばれるなど輝かしいキャリアを持つ彼だが、その「高校生活」についてはあまり語られていない。これは、まだ何者でもなかった頃の遠藤の物語である。
「あっ、そうすか」――最後の言葉
遠藤が日本代表として最後に報道陣に公の場で放った言葉は「あっ、そうすか」だった。その言葉は、この記事を書く私、古和康行に向けられたものだ。遠藤はやはり、私のことを覚えていない。
16年前の夏、高3の遠藤が語ったこと
今から16年前の夏休み。遠藤のクラス担任だった會田勉は、一緒に神奈川大学へ向かう道すがら、どうしても聞きたい質問を遠藤にぶつけた。他の生徒のことをどう思っているのか――。すると返ってきた答えは「ちょっと中途半端かなと思いますよ」だった。
會田は述懐する。「遠藤はね、絶対に人の悪口は言わないんです。今思えば、彼はサッカーで身を立てようとあのときから考えていたんでしょう。でも、クラスメイトを見るとじれったい部分があったんですかね」
記者が尋ねた。「會田先生にとっては、遠藤も自分の生徒だけれど、中途半端と言われた生徒もまた自分の生徒。腹は立ちませんでしたか?」。會田は少し考え込んで言った。「多分、あの言葉は僕にも言われていたのかもしれないですね。あそこから僕は変わったと思います」
遠藤の記憶――後輩記者の視点
記者にとって、遠藤は一つの思い出の存在だ。金井高校3年生だった2008年、遠藤が入学してきた。高校進学とほぼ同時に湘南ベルマーレのユースに入ったと聞き、同級生のサッカー部員に「部活に誘えばいいじゃん」と言うと、「そんなレベルじゃないんだよ」と笑われた。
3年生の球技大会。数合わせでサッカーに出場した私は、当時1年生の遠藤にタックルされて軽々とすっころんだ。「なんだあいつ…」と友人に強がると、「遠藤だよ」と言われた。2学年下の後輩に為す術もなくやられる姿は恥ずかしく、腹が立った。
會田も入学当初の遠藤のことはほとんど覚えていない。「全く目立つ存在じゃなかった。同じ学年で担任をしていたけれど、彼のことは知りませんでした。2年生で授業を受け持つようになって、『これが遠藤君なんだな』と思ったくらいで」
サッカー以外の姿――勉強と学校行事への真摯な姿勢
遠藤はその後、高校2年だった2009年の新潟国体で神奈川県チームを主将として優勝に導く。サッカーキャリアを順調に歩む一方、高校3年では會田が受け持つ理系のクラスに入った。この頃、遠藤は湘南ベルマーレのトップチームの練習に呼ばれ、世代別代表にも招集されていた。それでも学校ではきちんと授業を受ける姿勢を崩さず、授業中の居眠りも一切しなかったという。
「自分の意思を貫いているようだった」と當田は振り返る。「僕が受け持っていた3年生のクラスは理系で、勉強の負担が大きい。本音では、サッカーを頑張ればよい、勉強しなくてもいいのに、と思っていたが、遠藤は『数学や物理が好きだからやりたい』と言っていた」という。
さらに「高校3年生に飛び級でU-19の世代別代表に選ばれ、世界各地で試合をしていた。でも、そのたびに『課題がほしい』と言われて渡していました。どんなに忙しくても、遠藤は全部やってくるんです。『君は日本を代表してサッカーをするんだから課題なんてやらなくていい』と言っても」
今は神奈川県立柏陽高校の校長を務める會田は、今でも自分の学校の生徒に聞かせる話がある。「高校3年の文化祭でうちのクラスは焼きそばを作ったんです。でも、遠藤は準備までしていたのに、文化祭当日は試合に招集されて来られなかった。ところが、文化祭翌日の片付けは誰よりも早く来て、一人で黙々と作業をしていたんです。『片付けだけでもさせてください』と言っていたのを聞いて、すごいなと感服しました」
「きっと、遠藤の高校生活の足場はサッカーだったと思う。金井高校にすごく愛着があるというわけでは決してないと思う。でも、友人関係も勉強も学校行事も、本当に全く手を抜きませんでした。『ここを選んだ』という自負がそうさせたんだと思います」
50周年記念事業と母校の統合
2025年10月に50周年を迎えた金井高校。記念事業として学校の中庭を整備するプロジェクトが立ち上がり、遠藤も参加し、自身のスパイクにサインをして寄贈した。50周年記念式典ではビデオメッセージを送っている。「高校時代はサッカー中心の生活を送っていたんですけども、担任の先生だったりとか、色んな方たちに支えてもらいながら、すごく楽しい高校生活を送ってきた」
しかし、この50周年記念事業のわずか1か月前、神奈川県教委は2031年に県立金井高校が県立舞岡高校と統合する方針を明らかにしていた。統合後の学校は舞岡高校の敷地と施設を活用することになり、金井高校は歴史に幕を閉じることが決まった。
校長の笠原昭彦は「発表当時は非常に狼狽した」と振り返りつつ、「伝統ある金井高校の学びを止めてはいけない。これは『終わり』ではなく、新しい未来をつくる覚悟の瞬間だと位置づけた」という。笠原は高校の50周年記念で寄せられた遠藤からのビデオレターを学校説明会などで流している。「統合される側の学校なのに、募集倍率では舞岡より上だったんです。こんなことがあるんだって思いました。最後まで『金井の学びを止めない』という気持ちを強く持たせてくれました」と語る。
引退前日の遠藤と記者の思い
遠藤に球技大会でやっつけられた記憶は、若い頃は苦い思い出だった。でも、遠藤が世に出るにつれて、記者にとっては自慢のようになっていった。後輩にタックルされて負かされた記憶は、日本代表と同じグラウンドに立ったという思い出に書き換わった。
2021年に私は精神を崩して休職した。遠藤はドイツ・ブンデスリーガでデュエル王に輝き、2022年のカタールW杯では日本代表の主将として出場している。この時も私は遠藤との思い出のように当時を振り返った。
でも、内心は悔しかったのだ。かつては怒れたのに、あまりに距離が離れすぎて自慢するしかない自分が情けなかった。同じグラウンドにいた遠藤と、精神的に病んでしまった自分。どうにも埋まりそうにない距離だけど、自分にだってできることがあるはずだと仕事に向き合ってきた。
2026年3月、北中米3か国大会の取材班に入るよう打診された。全く予想していなかったが、これまでやってきた自分の仕事の一つの集大成になるような気がしていた。サッカーの専門知識も、海外に行った経験もない。それでも、遠藤に会わなければ自分の人生に決着がつかないような気がしていた。
けがの影響で代表選出が危ぶまれていた遠藤だったが、無事に選ばれた。ナッシュビルでは11日まで大会に向けた調整を続けていた。
日本代表として最後の練習参加となった11日、遠藤は報道陣の前を通ったが、取材には応じていない。この日、私はミックスゾーンで集まっていた報道陣とは少し離れたところで待ち、目の前を通り過ぎる遠藤に「遠藤選手、會田先生から伝言があります」と伝えた。遠藤はちらりとこちらを見て「なんですか?」と応じた。私が言葉を伝えると「よろしくお伝えください」と言い残して先に進んでいった。
思わずその背中に声をかける。「僕、遠藤選手と同じ高校出身で……」。遠藤はこちらを振り向き、「あっ、そうすか」と一言だけ残して行ってしまった。そこから約24時間後、遠藤はサッカー日本代表を引退した。
輝けなかった人たちでも
サッカー日本代表は、日本で最もサッカーがうまい人たちだ。でも彼らの周りには、彼らと同じように輝けなかった人たちがいる。そういう人たちの足下を、輝く人たちは照らしている。それぞれが歩む一歩の大きさは同じだし、どちらの生活も続いていく。
球技大会で吹き飛ばされたあの日から18年。アメリカで会った遠藤はやっぱり私のことなど覚えていない。でも、彼が輝き続けてくれたからこそ、僕は自分の人生と向き合うことができた気もする。少なくとも、「俺だって…」と思うことはできた。
會田は取材の最後、こんなことを言った。「多分、僕も『若いときに頑張りきれたか』と問われると首を縦には振れない。『遠藤になれなかった』一人です。でも、遠藤が『中途半端だと思う』と言ったあの日から、僕も人生へきちんと向き合うようになった。彼が輝いていく人生を見ることができて幸せだと思います」。
遠藤は僕のことを覚えていない。それでいい。きっと、これからももう言葉を交わすことはないのだろうけど、これだけは伝えたい。ありがとうございました。



