金ボタンは口元に笑みを貼りつけたまま、「お力になれず申し訳ありません」と言った。兎耳は金ボタンの肩から手を離さず、「まあ、即答せずにさ」と目を細めた。「考えてみろ。この国に駐留している四つの連合国軍がいつまでも肩を組んでいると思うか?互いに出し抜こうと必死さ。今や、ここは諜報員の地だ。どの国と仲良くするか、見極めは大事だ」
「私どもは最高のもてなしを心がけて、お客様をお迎えするだけです」と平静な金ボタンの返しに、兎耳は「これは失敬」とおどけた仕草で両手をあげた。「少々酔いがまわったようだ。新聞は明日の朝でいい」と言い、「これは雑談に付き合ってくれたお礼だ」としわくちゃの紙幣を金ボタンの胸ポケットに押し込んだ。
鼻歌をうたいながら去っていく兎耳の後ろ姿に、金ボタンは「誰にお訊きになっても同じですよ」とつけ加えたが返事はなかった。鼻歌がゆっくりと小さくなっていき、やがて聞こえなくなると、音もなく煙が現れた。
「暖炉の火の始末は済んだよ」とスモーキングルームの片付けが終わったことを告げる。それから、「毎晩、機嫌の良いお客様がいるね」と兎耳の鼻歌の一小節を口ずさんだ。
雪の降る晩、森は月を吞んだようにほんのりとあかるい。客室の明かりが消えたホテルは、スモーキングルームに残るざわめきも、玄関ホールにこだましていた喧騒も、雪が吸い取ってしまったかのようで、耳が痺れるような静寂に包まれている。赤い絨毯の敷かれた大階段も、煌々と輝くシャンデリアも、薄い氷を纏ったように気配を潜めていて、フロント裏の小部屋では毛布にくるまった夜間担当が深い眠りに落ちていた。



