永井隆博士の戦場色紙が靖国神社に奉納、日中戦争従軍中の緊迫手術を描写
「長崎の鐘」の著者であり、被爆医師として知られる永井隆博士(1908~1951年)が、日中戦争従軍中に描いた手術の様子を記した色紙が、靖国神社(東京)に奉納されていたことが明らかになった。今年は博士の没後75年にあたり、この発見は戦場での医師の実態を知る上で極めて貴重な資料として注目を集めている。
戦闘中の緊迫手術を墨で描写
靖国神社によると、色紙は縦約25センチ、横約30センチの大きさで、右下に「永井軍医画」、左上に「中村旅団長閣下開腹手術」などの記載がある。1939年12月、中国南部の前線で日本軍将官が腹部などに銃弾を受けて負傷した際の手術の状況が、墨で詳細に描写されている。
色紙には、博士を含む5人の軍医がベッドを囲み、将官の手当てをしている最中に砲弾が建物に命中してさく裂し、爆風が室内を襲った場面が描かれている。周囲では警戒する兵士や注射器を手にする兵士たちの姿も確認でき、戦闘の緊迫した状況が生々しく伝わる。将官は傷が深く、残念ながら亡くなったという。
裏面には簡略画と詳細な記録
色紙の裏面には、同じ構図の簡略画があり、各人物の名前や階級、担当などが細かく記されている。上部には「迫撃砲弾命中」の文字も見られ、ベッド奥中央で執刀を手伝っている人物に「永井軍医」と記載されている。ただし、表の絵ではこの人物の顔が爆風の描写に隠れており、戦場の混乱を象徴している。
長崎市永井隆記念館の説明によると、博士の従軍中の書画は十数点が確認されているが、大半は写真やコピーで、実物が現存するのははがきと別の色紙の計2点のみとされてきた。今回発見された色紙は、戦闘の緊迫した状況をリアルに再現した極めて珍しい作品であるという。
永井隆博士の戦場体験と平和思想
永井隆博士は島根県生まれで、1928年に長崎医科大(現長崎大学医学部)に入学。卒業後は助手を務めていたが、1933年に軍医として満州事変に従軍した。1937年に日中戦争が始まると再び召集され、約3年間にわたり中国で72回の戦闘に従事した。
博士の盟友でキリシタン研究で知られる片岡弥吉氏(1908~1980年)は、著書「永井隆の生涯」で、戦地から届いた博士の手紙をもとに従軍中の出来事を紹介している。現地の住民に貴重な薬を分け与えたり、敵兵士の手当ても惜しまなかったというエピソードが記されており、将官の手術についても触れられている。
靖国神社によると、この色紙は将官の遺族が約50年前に奉納したもので、いつ頃描かれ、どのように遺族に渡ったかは不明だという。神社内の遊就館では昨年11月から12月にかけて、日中戦争の戦没者に関する特別展が開催され、将官の軍服などと一緒に展示された。
孫の永井徳三郎館長がコメント
知人から連絡を受け、展示を知ったという博士の孫で、永井隆記念館の永井徳三郎館長(59歳)は、「筆跡や絵のタッチから祖父が描いたものに間違いない。色紙は永井の戦場体験を伝える貴重なものだ」と指摘する。
さらに、「戦地での過酷な体験が隣人愛を強固なものとし、被爆体験を経てさらに徹底した平和思想につながったのではないか」と語り、博士の生涯を通じた思想的変遷に言及した。
靖国神社の担当者は、「戦場にいなければ描けない、緊迫した状況が伝わる生々しい絵だ。これからも大切に保管していきたい」と述べ、歴史資料としての重要性を強調した。
永井隆博士の生涯と功績
永井隆博士は1945年8月9日、爆心地から約700メートルの長崎医科大医院(現長崎大学病院)で勤務中に被爆。重傷を負いながらも多くの被災者の治療にあたった。長崎原爆で妻を亡くし、戦後は「如己堂(にょこどう)」と名付けた建物で2人の子供と生活した。
白血病に侵されながらも、「長崎の鐘」「この子を残して」など被爆の実相を伝え、平和を願う作品を発表し続け、43歳でこの世を去った。博士の戦場体験と被爆体験は、その平和思想の根幹を成すものとして、今日でも多くの人々に影響を与えている。
