東京大空襲から81年、母を失った91歳女性が語る戦争体験と平和への願い
日野市に住む松下かほるさん(91)は、81年前の1945年3月10日に発生した東京大空襲で母と兄を失った悲劇を経験した。戦後、長い年月を経て、戦争を知らない若い世代に当時の実情を伝えたいという思いから、80歳を過ぎてから戦争体験をエッセーに綴り始めた。その活動は、昨年開催された日野市の郷土資料館での企画展でも展示され、多くの人々の共感を呼んでいる。
母との温かい思い出と突然の別れ
松下さんは、現在の江東区深川で祖母と母、3人の兄と共に暮らしていた。母のエイさんは、浄瑠璃を物語る女義太夫として「七色の声のお師匠さん」と呼ばれる人気者で、子どもたちから憧れの存在だった。太平洋戦争前には、兄たちと共に母の舞台を見に行き、その姿に強い印象を受けたという。
戦時中、長兄が召集される際には、母が三味線で軍歌を弾きながら涙を流して見送った。松下さんは当時を振り返り、「母は『絶対に死なないで』と泣きながら抱き合った。兄は体が弱くてすぐに帰されたが、その光景は今も忘れられない」と語る。
1944年、松下さんは祖母と共に栃木県に縁故疎開した。それでも母は頻繁に手紙を送り、ほぼ毎週のように疎開先を訪ねてきた。ある日、母から手編みの赤い手袋をプレゼントされたが、翌日学校で紛失してしまう。帰宅後、一人で泣いていると、帰京前の母が現れ、優しく抱きしめてくれた。松下さんはエッセーにこう記している。
「母にしがみつき、『帰らないで!』と叫んだ。母は『帰らないよ。その代わり手袋を盗られたなんて、決して言わないと約束してくれる?』と優しく言った。母の胸の温もりは、今も私の大切な思い出である」
東京大空襲による悲劇と戦後の苦悩
しかし、その温かい時間は突然終わりを告げた。東京大空襲の数日後、長兄と次兄が疎開先にたどり着き、次兄から母と末弟が逃げる途中で行方不明になったと聞かされる。その晩、長兄と祖母の会話から、二人の生存が絶望的であることを悟り、布団の中で涙を流した。母と弟の遺体は今も見つかっていない。
戦後、松下さんは祖母と兄二人と共に田無で暮らし始めたが、母がいない寂しさは常に付きまとった。学校では「母の日」の行事で、母がいる人は赤いカーネーション、亡くなった人は白いカーネーションを胸につけるように指示され、母を失ったことが周囲に知られることを恐れた。家に帰ると、クレヨンで白い造花を赤く塗り、母が生きているふりをしたという。
エッセーを通じた平和へのメッセージ
松下さんは二度の結婚を経て三人の子どもを育て、現在は一人暮らしをしている。約8年前、病気になった夫をきっかけに新たな学びを求め、エッセー教室に通い始めた。そこで講師から「戦争体験を書いてみたら」と勧められ、自身の経験を綴り始めた。
昨年、戦後80年を記念して日野市の郷土資料館で開催された企画展では、松下さんのエッセーや母からの手紙が展示された。訪れた中学生たちは、その体験を絵に描いたり、「普段の日常が続くことは幸せなことで、ずっと続いてほしい」といった感想を寄せたりした。
松下さんは語る。「戦争がもっと早く終わっていたら、母も死なずにすんだし、深川の家も焼かれずにすんだのに。戦争はしちゃいけない」。81年経った今でも、その思いは強く、時折涙を流すという。
松下さんのエッセーの一部は「文藝多摩人 ベストエッセイ&戦争体験記」に収録され、日野市立図書館で読むことができる。彼女の言葉は、戦争の悲惨さと平和の尊さを静かに、しかし力強く伝え続けている。



