靱帯損傷を乗り越え世界へ、中田英寿に触発されたハンドボール監督の執念
愛知県春日井市にある中部大学のハンドボール部監督を務める櫛田亮介氏(1977年奈良県出身)は、選手時代に左膝靱帯を損傷する大怪我を負いながらも、世界への執着心を失わず、指導者として国際舞台に立つまでの道を歩んできた。その原動力となったのは、大学時代に読んだスポーツ雑誌「Number」で頻繁に特集されていた中田英寿氏の存在だった。
中田英寿の活躍に触発され、世界を目指す決意
櫛田氏が中部大学の学生だった頃、スポーツ総合雑誌「Number」の誌面はワールドカップと中田英寿氏の話題で溢れていた。毎号のように掲載される特集記事を読み、「同世代のヒデ(中田英寿氏)が世界で活躍する姿に感心すると同時に、自分も世界で活躍する社会人になりたい」と強く影響を受けたという。この思いが、後の海外挑戦への原動力となっていく。
大学卒業後、櫛田氏はトップリーグのホンダに入団。6年間在籍し、3年連続優勝やシーズン全試合得点など輝かしい実績を残した。しかし、ホンダがリーグから撤退することを知り、多くの選手が引退して社員として残る中、彼は「ヒデのように日本を飛び出したい」という思いから、ハンドボールの本場であるヨーロッパへの挑戦を決断。安定した生活を捨てる勇気が必要だったが、胸に秘めた思いがそれを後押しした。
ドイツでの活躍と靱帯損傷という試練
ヨーロッパに渡った櫛田氏は、自らを売り込み、ドイツ4部のチームに入団。言葉の壁に直面しながらも、プレーで次第に認められていった。30歳を迎えたドイツ2年目は調子が上々で、開幕5試合のシュート決定率が100%を記録するなど絶好調だった。
しかし、その矢先に人生を大きく変える大怪我が襲う。相手選手との接触で左膝の靱帯を損傷し、現地の医師から「交通事故でも見ないほどひどい状態。自力で歩けたらラッキーと思え」と診断されたのだ。チームを解雇され、春日井市の実家に戻った櫛田氏は、左足に全く力が入らず、日常生活もままならない状態に陥った。
リハビリと不屈の精神で現役復帰へ
それでも、海外へのこだわりは消えなかった。櫛田氏は現役復帰を目指し、中部大学の施設を借りてリハビリを開始。貯金を計算し、期間を2年と決め、「それまでにチームが決まらなければ諦める」と覚悟を固めた。
1年11カ月と10日後、リーマンショックの影響でビザ取得が困難となり海外行きは断念せざるを得なかったが、北陸電力でトップリーグに復帰を果たす。6年後に引退後は指導者に転身し、女子日本代表のコーチとして世界で戦う機会を得た。苦しい時期を乗り越える原動力となったのは、世界への執着心であり、その根源には中田英寿氏からの影響があったと振り返る。
読書を通じた選手育成と「Number」の継承
もともと読書が好きだった櫛田氏は、3年かけて読んだ「水滸伝」シリーズなど、多くの作品に親しんできた。2年前から監督に就任した中部大学では、部員の知見を広げるため読書を推奨している。時には「Number」を手渡し、「河村勇輝や八村塁をライバルだと思え」と語りかけることもあるという。選手時代に触発された雑誌を、今度は次世代を育てるツールとして活用しているのだ。
櫛田氏の歩みは、怪我や挫折に負けず、執念を持って目標に向かうことの大切さを教えてくれる。中田英寿氏に触発された思いが、靱帯損傷という試練を乗り越え、指導者として世界で戦うまでに成長したのである。



