ワープロ修理の男性が「最後の大勝負」 原発事故で福島から群馬へ、そして再び故郷へ
ワープロ修理の男性「最後の大勝負」 原発事故で福島から群馬へ

ワープロ修理の男性が「最後の大勝負」に挑む 原発事故で福島から群馬へ、そして再び故郷へ

「ワープロのことでお困りの方は何でもご相談ください」──。東京新聞の片隅に小さな広告が掲載されている。広告主は福島県いわき市にある「福島ビデオ」の丹治幹夫さん(72)。今では製造が終了したワープロの修理を続けるその思いの背景には、2011年3月11日に起きた東京電力福島第1原発事故による避難生活と、故郷への帰還という複雑な人生の軌跡があった。

消えた技術を守る職人 月25件の修理依頼

工具や部品が所狭しと置かれた6畳ほどの作業場。プリンターが不調というワープロが机に置かれ、丹治さんが丁寧に手を動かす。日本語ワープロは1979年に東芝製で発売され、1980年代には家庭にも普及したが、1990年代にパソコンに主役を譲り、2000年代初頭に製造が終了。メーカーの修理サポートもない中、丹治さんは月平均25件の修理依頼に対応している。

「東京新聞を見て、電話をしてくる人が多いですよ」と丹治さんは語る。広告は2018年4月3日から掲載されており、代理店の担当者によれば、相模原市で修理していた人が辞めたため声がかかったという。当初の広告には「3・11原発震災により福島県から群馬県へ移転」との一文が記されていた。

Pickt横長バナー — Telegram用の共同買い物リストアプリ

原発事故がもたらした転機 福島から群馬への避難

丹治さんと妻の杉江さん(69)は以前、いわき市内で家電修理店を営んでいた。1979年から修理業を始め、2007年ごろからワープロ修理を本格化。テレビで紹介されるなどして全国から依頼が寄せられ、経営は順調だった。

しかし、2011年3月11日の原発事故が人生を一変させた。自宅は政府の避難指示区域内ではなかったが、放射能への不安から4カ月後に自主的に群馬県前橋市へ避難を決断。「4000台の在庫のワープロをトラックに積んで何度も往復した。50代だったからね」と丹治さんは当時を振り返る。

13年の避難生活と「最後の大勝負」への決意

前橋では、杉江さんが原発事故の避難者訴訟に力を注ぐ一方、丹治さんは作業場で朝から晩までワープロを修理し続けた。2022年夏に裁判が終わり、そのまま前橋に住み続けるつもりだったが、ある不安が頭をよぎる。

「多くの人と知り合いました。ただね、みんな年上。80歳になったとき、誰もいなくなっちゃうんじゃないか」。この思いが、13年暮らした前橋からいわきへの帰還を決意させた。当時69歳だった丹治さんはノートに「最後の人生 最後の大勝負」と記したという。

故郷への帰還と老老支援の輪

大量のワープロと部品を2トントラックで10回往復させて運び、自宅敷地にプレハブを含む倉庫5棟を設置。国内で販売された14メーカー、約700機種を修理できる体制を整えた。常連客には直木賞作家もおり、客の平均年齢は80歳を超える。「高齢者の生きがいを年寄りが支えている。まさに、老老支援ですよ」と丹治さんは語る。

客からは「ワープロがない半年、両腕をもがれたようだった」といった手紙が届く。杉江さんは、夫が旧友と月1、2度飲みに行く様子を見て「福島に帰ってきたんだなって、すごくうれしい」と笑顔を見せる。

丹治さんは「おれは80歳までやるべきだな」と自身に言い聞かせるように話す。ワープロ修理を通じて、原発事故で傷ついた地域と人々の絆を紡ぎ続けるその姿は、技術の継承だけでなく、人生の再生と希望の物語でもある。

Pickt記事後バナー — 家族イラスト付きの共同買い物リストアプリ