出版社退職後の不安定な日々と学習塾講師としての生活
九段下にあった出版社に就職したものの、仕事内容は定期刊行物の契約延長や新規契約を結ぶ営業業務でした。入社早々から他県への出張が続き、小中学校を徒歩や自転車で巡る日々に、「こんなはずではなかった」という思いが強まります。結果的に、わずか3カ月足らずで辞表を提出することになりました。
しかし、すぐに生活に困窮する状況に陥ります。毎日早朝に駅でアルバイト誌を購入し、日払いの仕事を探す生活が続きました。そんな中、後輩の学生から紹介されたのが学習塾の講師の仕事でした。当時は第2次ベビーブームの子どもたちが小学校高学年になる時期で、都内では学習塾が急増していました。面接では「それで、いつから来られるの?」という簡潔な質問だけで採用が決まるほど、人手不足の状況だったのです。
漠然とした不安と国際情勢への関心の高まり
学習塾講師として働きながらも、自分が将来何をしたいのかという漠然とした不安にかられていた1982年、国際情勢が大きく動きます。イスラエルによるレバノン侵攻が発生し、テレビでは連日ニュースが流れていました。戦争の悲惨な光景が報道される中、四谷周辺で行われたイスラエルへの抗議デモに参加することになります。
そのデモで、現地から帰国したばかりのドキュメンタリー映画監督・布川徹郎さんの取材報告を聞く機会に恵まれました。テレビに映る戦争の現場に実際に行っていた人物がいることに強い衝撃を受け、報告終了後、直接あいさつを交わしました。
布川徹郎監督との出会いがもたらした人生の転換点
この出会いが大きな契機となり、翌年2月には塾講師のアルバイトを辞め、布川さんの取材クルーに同行させてもらうことになりました。この決断が、その後の人生の方向性を根本から変えることになります。
豊田氏は当時を振り返り、戦争の現場を直接取材するジャーナリストの存在に触れたことで、自分自身の進むべき道が見えてきたと語っています。テレビの向こう側の現実に直接関わることの重要性を痛感し、フォトジャーナリストとしての道を歩み始めるきっかけとなったのです。
レバノン侵攻の記憶と現在へのつながり
1984年には、イスラエルによる侵攻で廃虚と化したレバノンの首都ベイルートを実際に目にすることになります。ニュースで見た光景が目の前に広がる現実は、戦争の悲惨さをより強く実感させるものでした。
この経験が、後のフォトジャーナリストとしての活動の基盤となり、国際紛争や人道問題に対する深い関心と、現場で事実を伝えることへの強い使命感を育むことにつながりました。豊田直巳氏の「私の東京物語」は、単なる回顧録ではなく、一人の人間がどのようにして自分の生きる道を見出していったのかを描く、貴重な証言となっています。



