ある日、兵庫県尼崎市の高齢男性宅に電話がかかってきた。相手は市職員を名乗る穏やかな声で言う。「払いすぎたお金をぜひ受け取っていただきたい。特別に手配したいのですが、ご利用の金融機関を教えていただけますでしょうか」。男性は迷うことなく「はい、尼崎信用金庫です」と答えた。
これは2024年に市内で行われた実験の一幕である。声の正体は人工知能(AI)。2017年の内閣府調査で78%が「知っている」と答えた還付金詐欺の電話を再現したものだ。実験に応じた高齢者22人は、事前に詐欺の模擬電話がかかってくることを伝えられていた。しかし、流ちょうな言葉を繰り出す生成AIと話すうち、個人情報を教えてしまう場面が相次いだ。ほとんどが生年月日を答え、2割弱は金融機関も明かした。
「こんなに引っかかるとは」。開発を担当した富士通セキュリティサイエンス研究所の紺野剛史(48)は驚きを隠せなかった。社会心理学者で立正大教授の西田公昭(65)は「手口を知っているだけでは、詐欺に対する防衛にはならない」と強調する。人間には「自分が不幸な出来事に遭う可能性は低い」と思い込む心理傾向があり、それが誤った判断を生むという。「いつか津波が来ると知っていても、実際に逃げなければ話にならないのと同じだ」と西田は語る。
これまでの詐欺対策は、被害の傾向や手口を紹介する啓発が中心だった。犯罪心理学者で東洋大教授の桐生正幸(66)は「手口を知っておくことは大事」と前置きした上で、「『Don’t think! Feel!』(考えるな、感じろ)ですよ」と力を込める。これはカンフー映画『燃えよドラゴン』でブルース・リーが弟子に感覚を研ぎ澄ます大切さを説く言葉であり、詐欺の知識だけでなく、だまされる感覚を知っておくことが重要だと説く。
桐生と富士通が共同研究で開発したのが、尼崎市の実験で使われた生成AIである。うその電話を体験できるだけでなく、参加者の応答を評価し、センサーで読み取った心拍数や呼吸数から緊張や混乱の度合いを推定し、だまされやすさを点数で伝える。桐生のAIアバター(分身)が画面上で結果を解説する仕組みもある。「体験した上で具体的に助言を受けると、記憶に残りやすくなった」と富士通の紺野は明かす。アバターの助言を受けた人は、そうでない人より今後の対策を具体的に語れたという。
「オレオレ詐欺」が社会問題になって20年以上。詐欺はより巧妙で組織的になってきたが、西田は「標的にされるヒトの心の仕組みは同じ」と語り、誰もがだまされる可能性そのものは変わっていないと指摘する。ならば、ヒトは欺きにどう抗えばいいのか。「自分は弱く、相手は手ごわいと知ることだ」と西田は言う。富士通のAIのように、緊張や混乱の中で冷静に判断できるか訓練することにも価値があるとみている。
詐欺対策は長らく警察が主導してきたが、近年は技術を持つ企業や心理学者、自治体の連携が広がってきた。西田はそこに希望の光を見る。「ヒトはだまされる生き物。その前提でうまく回る社会をつくっていくべきでしょう」と締めくくった。



