100歳の増田さん、横浜大空襲描く渾身の新作3点を戦争展で公開
100歳増田さん、横浜大空襲描く渾身の新作3点を公開

太平洋戦争末期の1945年5月29日、横浜大空襲を生き延びた増田成之さん(横浜市戸塚区)が、今年100歳を迎え、体力の限界を感じながらも「これが最後」と決意して描いた渾身の新作3点が完成しました。約7~8年ぶりに筆を握った増田さんは、記憶の風化への焦りと、戦争を知らない世代が社会を動かす現代への危機感から制作に臨みました。

19歳で体験した地獄

増田さんが大空襲に遭遇したのは19歳の時。勤務先の鉄工所があった鶴見区から、家族の安否を気遣い西区戸部の自宅へ自転車で戻る途中、周囲は地獄絵図と化していました。全身が煤だらけの人々から「あっちで大勢死んだ」「行っても無駄だ」と声をかけられました。地面は靴底が溶けるほど熱く、貴重な自転車を担いだり、タイヤを水たまりで冷やしながら進みました。熱風で舞い上がった金属片が空から降り注ぎ、目の前に突き刺さった瞬間は肝を冷やしました。

自宅に戻ると周囲は焼け野原。家族は無事でしたが、近くの防空壕では女性や子ども約30人が亡くなっていました。遺体を火葬するため、三日三晩にわたり搬送作業を手伝いました。横浜駅前の広場では、引き取り手のない遺体を焼く生臭い煙が立ち上り、夜中も炎が絶えませんでした。道路の側溝には、赤ん坊をかばうようにして息絶えた母子の黒焦げの遺体が放置されていました。

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「戦争が起きれば、原爆でなくても人は簡単に焼き殺される」。自らの体験で知った恐怖は、今も鮮明に脳裏に刻まれています。

71歳から本格的な制作

子どもの頃から絵が得意だった増田さんが、本格的に制作に打ち込んだのは71歳の時。大病を患い、都内の病院から帰宅する途中、東京駅構内で開催中の絵画展を偶然鑑賞しました。展示されていたのは、長野県上田市の「無言館」が所蔵する戦没画学生の遺作。描きたくても描けなかった若者たちの無念に衝撃を受け、独学で油絵の創作を始めました。

増田さんは旧日本軍の徴兵検査で「丙種」判定を受け即時入隊が猶予されましたが、出征した友人の多くは戦死しました。描く作品は戦争犠牲者の記憶を風化させないための「鎮魂歌」でもあり、毎年反戦平和を掲げる展示会に出展。2024年には絵画文集「横浜炎上」を自費出版しました。

新作に込めた思い

今回の新作の一つは、空襲で焼けた都内の大衆劇場「ムーラン・ルージュ新宿座」をモチーフにしています。戦地に旅立つ前の学徒兵らが、看板女優・明日待子の歌声に励まされ、客席から「待子万歳!」「行ってきまーす」と歓喜の声を上げた光景を記憶に基づいて描き、象徴だった「赤い風車」を表現しました。

残る2点は「星の旅」がテーマ。宇宙の悠久の歴史から見れば人間の寿命は一瞬に過ぎないのに、なぜ人間は殺し合うのかという深い問いかけが込められています。

増田さんは現在の国内外の政治状況を憂慮しています。国内では戦争の真の恐ろしさを知らない政治家が国を動かし、世界では強権的な指導者による武力攻撃で多くの女性や子どもを含む一般市民が命を奪われています。

「相手を認めず迫害するのは大きな間違い。まずは相手が自分の考えと違うことを認め、理解しようとすることが重要です」。キャンバスに刻まれた思いは、混迷を深める現代社会への警鐘であり、未来へ託す「平和の願い」そのものです。

戦争展で披露

新作は、かながわ県民センター(神奈川区)で5月29日から31日まで開かれる「平和のための戦争展inよこはま」で披露されます。

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横浜大空襲は、1945年5月29日午前9時20分ごろ、米軍のB29爆撃機517機が横浜上空に飛来し、約1時間で43万8500個以上の焼夷弾を投下。中区、南区、西区、神奈川区を中心に市街地は猛火に包まれました。公式発表では死者3650人、重軽傷者1万198人、行方不明309人、罹災者31万1218人。実際の死者は2~3倍とも言われています。