イスラエルとの停戦が発効して半年以上が経過したパレスチナ自治区ガザでは、散発的な攻撃と深刻な人道危機が続いており、パレスチナ問題の解決は依然として見通しが立たない状況にある。慶応義塾大学看護医療学部准教授の藤屋リカさん(58歳)は、1990年代から非政府組織(NGO)のスタッフとして、占領地ヨルダン川西岸と、両者が帰属を争う東エルサレムを拠点に人道支援に携わってきた。彼女はパレスチナにおける構造的な暴力と、その中で懸命に生きる人々の姿を伝えている。
国際協力への関心の芽生え
藤屋さんはカトリックの家庭に育ち、幼い頃からイエズス会の神父を通じて海外での活動に触れる機会があった。小学5年生の時、読書感想文のために父親が用意したマザー・テレサの本を読み、その活動に強く惹かれたという。中学2年生の時には、教会同士の交流プログラムでフィリピンを訪れた。当時、日本ではNGOがまだ十分に認知されていなかったが、修道会のシスターたちの案内で、犯罪からの更生を目指す絵付け作業を見学したり、スラム街の家庭に滞在したりした。現地の人々の「おもてなし」を受け、スラムに住む人々が持つ力を活かせるような支援ができたらと考えるようになった。
看護師としてのキャリアとNGOへの道
その後、藤屋さんは広島に進学し、人の命に関わる仕事を志して看護学校に入学。保健師の資格も取得し、広島市役所で保健師として勤務した。広島は平和活動が盛んで、様々なNGOの勉強会が開催されており、そうした場でNGOの活動を知り、自身の進むべき道の一つだと確信した。ちょうどその頃、大阪のカトリック教会が運営するNGOからパレスチナ事業が独立する形で新しいNGOが設立されたため、藤屋さんはそちらに移籍した。クリスチャンとしてベツレヘムやエルサレムの知識はあったが、実際にパレスチナを訪れると、その魅力に引き込まれ、長期滞在することになった。
NGOでの具体的な活動
藤屋さんは当初、スイスのNGOと協力して活動を開始した。ヨルダン川西岸のヘブロンにある4つの村を巡回し、家庭訪問を通じて地域の課題を把握した。当時は正確な地図もなく、イスラエルのハイキング地図をコピーして貼り合わせながら訪問していたという。ある村では全戸訪問を実施し、子どもの栄養失調が主要な課題として浮上した。しかし、同時に障害を持つ子どもへの支援という別の問題も明らかになった。そこで、拠点としていた村の集会所を週に1回、母親たちが子どもを連れて集えるスペースに変え、子育ての情報交換や同じ障害を持つ家族同士の交流の場を提供した。
第2次インティファーダと支援の継続
2000年、パレスチナ人による民衆蜂起「第2次インティファーダ」が発生。当時、藤屋さんはヘブロンの村を離れ、ベツレヘムの難民キャンプを拠点としていた。海外の形成外科チームが子どもの手術を実施することになったが、手術は遠く離れたナブルスの病院で行われることになった。それでも母親たちは子どもを連れて行きたいと願い、ベツレヘムとヘブロンの子どもたちを連れて行くことになった。国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)がバスを提供し、指が6本ある先天性障害の子どもを持つ母親が藤屋さんを覚えていてくれた。激しい戦闘が続く中でも、その母親は「子どもが少しでも良く生活できるように、治療を受けられるのであれば」と語ったという。
栄養支援と人道支援の本質
日本国際ボランティアセンター(JVC)に移ってからは、栄養支援に重点を置いた。子どもの健康状態を改善するためには、鉄分強化牛乳と栄養ビスケットを多くの子どもに届けることが効果的だが、どれだけ物資を届けても戦争は終わらない。藤屋さんは「戦争を終わらせることは人道支援の直接の役割ではない。人道支援に徹すること自体が、紛争地域での『お作法』だ」と語る。国際人道法が存在しても、パレスチナでは構造的な暴力が続き、長期化する紛争下で人々が苦しんでいる現実を、法が直接解決することは難しいと指摘する。
パレスチナに関わり続ける理由
イスラエルによるガザへの物流停止やインフラ攻撃、経済の破壊は、米国の政治経済学者サラ・ロイ氏によって「反開発」と表現された。藤屋さんは「私がパレスチナに関わるのは、『そこで人が生きている』からだ。それを抜きにしてパレスチナ問題を政治や経済だけで語ることはできない」と強調する。彼女は、現地の人々の生活を支え、彼らの状況を真剣に考え、伝えることが何かを変える力になると信じている。現地の人々は決して受け身ではなく、懸命に生き、工夫し、子どもを育てている。そうした人々が「生き続けている」ことを発信し、共に考えることが、自分にできることだと語る。
現場のリアルと政治への伝え方
バスで患者を運んだ際、最も重症のやけどを負った子どもを最前列に座らせたところ、検問のイスラエル兵がその子を見て驚き、「早く行け」と言ったという。その話を皆が笑いながら語るエピソードを紹介し、「不条理の中でも笑いながら患者を連れて行く。それが現場だ。イスラエル兵一人ひとりを憎んでいるわけではない」と述べる。しかし、日々の生活が伝わらないまま政治だけを変えようとしても、本質には届かないと警鐘を鳴らす。
現代の情報社会とパレスチナへの関心
第2次トランプ政権の発足後、様々なニュースに注目が集まり、パレスチナへの関心が薄れている可能性について問われると、藤屋さんは「パレスチナ問題は伝わらなくなったと嘆くだけでは伝わらない」と答える。現在のネット社会では、関心のある人にしか情報が届かない傾向が強まっている。しかし、ガザ攻撃を機にパレスチナに関心を持つ人が増えたことも事実だ。「見たい人は見られるようになっているが、見ない人はますます見なくなる。それが極端になっている。世界中の人が同じ順番で情報を見ているわけではないことに注意しなければならない」と語る。
藤屋リカさんの経歴
藤屋リカさんは1967年6月、山口県下松市出身。広島大学医学部附属看護学校を卒業後、広島県立広島看護専門学校公衆衛生看護学科を修了。広島市で保健師として勤務した後、1995年からNGO「地に平和」でパレスチナ母子保健事業の立ち上げに参加。第2次インティファーダの武力衝突がピークとなった2002年には、NGO「日本国際ボランティアセンター(JVC)」でパレスチナ緊急医療支援を担当。2004年にJVCに入職し、エルサレム事務所駐在、東京事務所パレスチナ事業担当として子どもの栄養改善などに取り組んだ。NGO職員として働きながら大学院に通い、2010年に東京大学医学系研究科国際保健学専攻博士後期課程を修了。2020年より現職。
インタビューを終えて
約20年前、中東留学を終えた記者はNGOでインターンとして働いていた。イラクの人道状況を調査・報告する地味な作業をしていた事務所で、いつも楽しそうに仕事をしていたのが、当時パレスチナ事業を担当していた藤屋さんだった。当時はイスラエルのガザ封鎖が始まったばかりで、事態は緊迫していた。藤屋さんは緊急支援を行いながらも、パレスチナ映画の上映会を開き、現地の刺繍製品を紹介して「人が生きている」ことを訴えていた。現在、金融担当記者として数字を追う日々を送る記者は、現場を大切にする藤屋さんの姿勢に改めて目を開かされる思いである。



