チョルノービリ原発事故から40年、研究者が語る「放射能と災難の大きさ」
チョルノービリ原発事故40年 研究者が語る教訓

京都大複合原子力科学研究所(大阪府熊取町)の元研究員である今中哲二さん(75)は、40年前のチョルノービリ(チェルノブイリ)原発事故発生直後から、日本国内で放射線量の測定を開始しました。その後、現地にも何度も足を運び、事故の実態を日本に伝え続けてきました。そんな中、東京電力福島第一原発事故が発生。今中さんに、二つの事故の相違点や、そこから学ぶべき教訓について話を聞きました。

事故発生から測定開始まで

――1986年4月26日のチョルノービリ原発事故を、どのように知ったのですか。

「4月29日朝のニュースで事故の発生を知りました。1200キロ離れたスウェーデンの原子力施設で放射能が検出されたと聞き、ひょっとしたら日本まで飛来するかもしれないと考え、熊取で測定を始めました。最初に汚染を確認したのは5月3日の雨水で、測定スペクトルにヨウ素131のピークがはっきりと現れました。空気中のチリからはセシウム137、134、ルテニウム103など、さまざまな放射性物質が検出されました」

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現地情報の入手と調査

――現地の状況は把握できましたか。

「汚染データを収集して事故の規模を推定しようと試みましたが、肝心の旧ソ連内部の状況はまったくわかりませんでした。民主化運動が盛り上がり始めた1989年春、ベラルーシの新聞にセシウム137の汚染地図が掲載されました。原発から200~500キロ離れた地域でも高レベルの汚染が確認され、驚きました。地元住民にも知らされていなかったのです。ロシア語を学びながら、現地の研究者らとの接触を始めました」

現地調査の経験

――繰り返し現地調査も行っていますね。

「1990年にベラルーシやロシア(当時は旧ソ連)の研究所を訪問し、ベラルーシ側からチェルノブイリ原発近くまで行きました。原発内部に入ったのは2002年です。発電所長に手紙を送り、原子炉の制御室や、コンクリートで覆われた『石棺』内部を見せてもらいました」

事故の原因と教訓

――事故はどのように発生したのでしょうか。

「40年が経過しても、まだ不明な点があります。非常用電源テストの準備中に、オペレーターが原子炉の制御を誤り、出力がゼロになりました。制御棒をすべて引き抜いて出力を上げ、テストを実施した後に緊急停止ボタンを押したところ、6~7秒後に爆発が起きたとされています。1986年8月に旧ソ連がIAEA(国際原子力機関)に提出した報告書では、オペレーターの規則違反が重なったとされていました。しかし、その後、制御棒の構造に欠陥があったことが判明しました」

放射能測定の限界

今中さんは「放射能は測定できても、災難の大きさを測ることはできない」と強調します。福島第一原発事故でも、放射線量の数値だけでは、避難や生活の変化による人々の苦しみを計り知ることはできません。チョルノービリ事故では、広範囲にわたる汚染と長期にわたる健康影響が問題となりました。福島でも同様の課題が浮き彫りになっています。

二つの事故の比較

チョルノービリと福島の事故は、原因こそ異なりますが、放射性物質の拡散による長期的な影響という点で共通します。今中さんは「原発事故が起きた場合、放射能の測定だけでなく、人々の生活や健康への影響を総合的に評価する仕組みが必要だ」と指摘します。

また、事故の教訓として、原発の安全性向上だけでなく、情報公開の重要性も挙げられます。チョルノービリでは旧ソ連が情報を隠蔽したことで被害が拡大しました。福島でも、初期の情報伝達に課題がありました。透明性のある情報公開が、被害の最小化につながると今中さんは考えています。

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今中さんは、現在も研究を続けながら、事故の教訓を次世代に伝える活動を行っています。放射能の測定技術は進歩しても、災害の本質を見極めることの難しさを、私たちは忘れてはなりません。