広島・原爆供養塔を25年以上清掃し続ける渡部和子さん、81歳の平和への祈り
広島市西区に住む渡部和子さん(81)は、1999年からほぼ毎日、平和記念公園(広島市中区)にある原爆供養塔の清掃を続けています。胃がんを患い入院したこともありましたが、2002年以降は夏は朝5時、冬は朝6時半から、日の出の時間に合わせて掃除を欠かさず行っています。「元気なうちは供養塔の掃除を続けていく」と語る渡部さんは、その静かな決意を胸に、今日も自転車で公園へ向かいます。
「供養塔の守り人」佐伯敏子さんとの出会いと継承
供養塔には、身元不明や引き取り手のない約7万人の遺骨が納められています。かつて「供養塔の守り人」と呼ばれた佐伯敏子さん(2017年に97歳で死去)は、約40年にわたり毎日清掃を続けていました。渡部さんは50歳頃に平和記念公園でガイドを始め、佐伯さんと出会います。母や妹を亡くした佐伯さんの被爆証言を何度も聞き、供養塔への強い思いを胸に刻んできました。
1998年、佐伯さんが体調を崩され、掃除をする方がいなくなると、供養塔の周りは雑草だらけになりました。これではいけないと思った渡部さんは、佐伯さんと親しく、当時一緒にガイドをしていた平岡満子さん(84)とともに清掃を始めることにしました。「私には、ここをきれいにすることくらいしかできません。佐伯さんの後を継ぐとか、使命感とかそんなおこがましいことは考えていません。自然な気持ちから始め、続けていくことが当たり前になりました」と振り返ります。
戦争の記憶と家族の被爆体験
渡部さん自身は被爆者ではありません。戦時中、父は朝鮮半島で働いており、渡部さんは現地で生まれました。戦後は収容所に入り、1歳だったため記憶はないものの、両親と5歳年上の兄と家族4人で、歩いて歩いて命からがら山口県周防大島に逃げ帰ってきました。母は「今、命があるのが不思議」とよく口にしており、戦争の恐ろしさは小さい頃から理解していたといいます。
2023年に亡くなった夫は、爆心地から約1.7キロ東の自宅で被爆しました。夫は生前、毎朝供養塔へ通う渡部さんを静かに応援してくれました。当時14歳だった夫の姉の基子さんは、土橋(広島市中区)のあたりで原爆の被害に遭い、遺骨も見つからないままです。家も全焼して遺品もなく、通っていた女学校の土をお墓に入れています。渡部さんは、基子さんも供養塔にいると信じており、掃除をする時は「基子ちゃん」と呼びかけています。
毎朝の清掃ルーティンと平和への願い
供養塔を清掃する際、渡部さんはいつも最初に手を合わせてから始めます。献花の水を替え、落ち葉などを掃いて集め、原爆が投下された午前8時15分までには終え、きれいな状態で訪れる方を迎えられるようにしています。水を運ぶのを手伝ってくださる方や、声を掛けてくださる方もいて、ありがたく感じているそうです。
供養塔は、一瞬にして命を奪われ、亡くなってもなお家族のもとに帰ることができない方々が眠り、原爆の惨劇を伝えています。納骨室の扉の前に立つと、「このすぐ奥に多くの犠牲者がいらっしゃるんだわ」と心に迫るものを感じると語ります。
訪れる人々の変化と核兵器廃絶への思い
昔に比べ、手を合わせに来られる被爆者やご遺族の方は減っていますが、最近は早朝でも外国人観光客が訪れるようになりました。渡部さんは、「インターネットで何でも調べられる時代ですが、多くの方にこの『ヒロシマの墓』を訪れ、核兵器の恐ろしさを感じてもらいたい」と願っています。平和教育の大切さを実感しながら、2人の子どもを育ててきた経験も、その思いを強くしています。
渡部さんは1944年3月生まれ。高校卒業後に山口県内の銀行に勤め、結婚を機に広島へ移り住みました。現在も広島市西区の自宅から自転車で供養塔へ通い続け、その小さな行動が、平和への大きなメッセージとして広がっています。



