惣十郎浮世始末 第234回 浅草の酷暑の中で校合摺りの最終段階へ
彦根の蔵屋敷を訪ねてから半月が経過したある日、梨春は単身で浅草へと向かった。その理由は、近くの浅草寺町正覚寺で中山鬼子母神のご開帳が行われる予定であり、炎天下にもかかわらず、周辺には多くの人足が集まっていたからである。
梨春は容赦ない日差しを避けるため、建物の陰を縫うように歩き続けた。それでも、ようやく須原屋の前に到着したときには、汗が顎からしたたり落ち、背中に着物がべったりと貼り付いていた。彼は腰にさしていた手拭いを取り出し、顔や首を拭いながら、衿を引っ張って着物を身から剝がすように調整した。息を整えた後、暖簾を潜って店内へと入っていった。
帳場での歓迎と作業の最終確認
帳場にいた伊八が目敏く梨春を見付け、小僧に水を汲んでくるよう指示を出した。梨春は板間の上がり框に腰掛け、なおも止まらない汗を拭い続ける。やがて小僧が湯飲みに水をなみなみと運んできたため、梨春はこれをひと息に飲み干した。
伊八は板間に手を突いて頭を下げながら、丁寧な口調で話し始めた。「いよいよあとは、正しく直っているか確かめていただければ、作業は終いになりますな。これまで長きにわたりお付き合いいただいて、まことにありがとうございました」
これに対し、梨春は慎重に応じた。「こちらこそ大変お世話になりました。しかしまだ作業は終わってはおりませんからね。最後まで気を引き締めてかからないとなりません」
冬羽の集中と職人としての姿勢
板間の隅で文机に向かっていた冬羽が、ようやく梨春の存在に気付いた。彼女は首だけ回してこちらを向き、「あら、先生、いらしてたんですね。今ね、仕上がりをちょうど検めていたところですよ」と語った。相変わらず眉はきれいに落としておらず、髱から後れ毛が飛び出しており、手はところどころ墨で黒くなっていた。
伊八はいつもの台詞を投げかける。「そんなとこで作業をしなくても、奥の間を使やいいだろう。お客様もいらっしゃるんだ」しかし、冬羽は売り場でもある板間の隅で、校合摺りを検めたり、戯作者や絵師、彫師に依頼の文を書いたりすることを好んでいた。机に向かうと集中するあまり周囲の音が聞こえなくなるらしく、梨春と伊八がそばで話をしていても、なかなか気付かないことが多かった。
伊八はこの日も懲りずにぼやいた。「客の気配なんざちっとも感じ取れてないんだから、板間だろうが、奥だろうが、仕事をする場がどこであれ係りがないと思うんですがね」
こうして、梨春は浅草の須原屋で、長期間にわたる校合摺りの作業の最終確認に臨むこととなった。酷暑の中での訪問にもかかわらず、職人としての緊張感と集中力が、店内の空気に満ちていたのである。



