夏の暑さと家族の日常が交錯する一幕
西日がじりじりと畳や柱を焼き付けるような猛暑の中、惣十郎は止めどなく流れる汗に往生していた。廊下へ向かって「おい佐吉、少し煽いでくれめぇか」と声を放つと、すぐに足音が近づいてきた。しかし顔を出したのは佐吉ではなく、湯飲みを載せた盆と団扇を手にしたお雅であった。
母・多津の変化と久々の筆執り
お雅は申し訳なさそうに、佐吉が与助の使いで魚河岸へ行ったことを説明した。惣十郎は「あいつもたまにゃあ、気を利かせるんだな」と呟き、お雅が差し出した熱い番茶を啜る。暑いときほど熱い茶が良いというのがお雅の持論で、体の熱を取り去り臓腑の動きを良くするという。
お雅が惣十郎の後ろで団扇を煽り始めると、惣十郎は母・多津の安否を尋ねた。するとお雅は「今し方、ちょうどお休みになりました。今日は少しお庭を歩いて、お疲れになったのかもしれません。それに、筆も執られて」と報告した。
多津は最近、床から出ることすら稀で、眠っている時間がほとんどだった。朝晩の食事もお雅が起こして摂らせなければならない状態であった。そんな中での筆執りは、久しくなかったことだった。
料理のコツとして記された母の記憶
「なにを書かれてたんだえ」と惣十郎が訊くと、お雅は嬉しそうに「お料理のコツなどをいくつか書いてくださいました。あたしに伝えたいとおっしゃって」と答えた。その顔は珍しく笑みで満たされていた。
惣十郎が「こうやって笑ってりゃあ、取っつきやすいんだがな」と思っている間に、お雅は席を立って部屋を出ていき、やがて紙を手に戻ってきた。「どうぞ」と手渡された紙を開くと、料理の手順を細かに記した図がいくつも並んでいた。
これは単なるレシピではなく、母・多津がお雅に伝えたいと願った記憶の継承であった。暑い夏の午後、団扇の風と熱い番茶に包まれながら、家族の絆が静かに確かめられる瞬間だった。



