静寂の中に漂う過去の影
ホテルのフロントと玄関ホールには、宿泊客が訪れる前の凪のような静けさが広がっていた。従業員たちの緩やかな会話と、カフェから漂うコーヒーの香りだけが、その静寂をわずかに揺らしていた。回転ドアが動いた瞬間、青草と日向の匂いをまとった風が室内に滑り込む。開放されたレストランのテラスからは、湖で戯れる客たちの水飛沫のような声が、かすかに聞こえてくるような気がした。
統一後の平穏と変化
軍関係者の家族が長期休暇で滞在しており、日差しの温もる時間帯には、金髪碧眼の子供や女性たちが庭園や森でのどかに過ごしていた。統一後の狂乱めいた騒動は鎮まり、街もホテルも落ち着きを取り戻していた。街中では、軍服の襟章や記章、市民の腕章、はためく赤い旗、そしてあちこちで歪に傾く黒十字が散見される。Jが姿を消したが、街の景色そのものは大きく変わってはいなかった。
むしろ、Jがいなくなったことで失業者は減少し、思想家や文化人は身を潜め、諍いや暴動もなくなった。整然と隊列を組んで路地を練り歩く軍人たちのおかげで、治安が改善されたようにさえ見えた。しかし、その平穏の裏側には、複雑な現実が横たわっていた。
金ボタンの記憶
金ボタンは、過去の光景を鮮明に覚えていた。地面に膝をつき、素手で掃除を強要されたJたちの姿、それを嘲笑う市民たち、破壊されるJの商店、屋敷から運び出される絵画や骨董品。人々の悲鳴や怒号、歓声、そして石畳に叩きつけられた文士の肉体が潰れる音。胸が重くなるような弾圧の匂いを、体がしっかりと記憶していた。その匂いは、今の静けさの中にも、張りつめた抑圧として漂っていた。
「出歩かなくなったのは、別に失恋のせいだけじゃない」と金ボタンは呟いた。「お前と仲が良かった爺さん医者がいただろ、『診察室』の。あいつも亡命したんだっけ」床を見つめながら、彼は言葉を続けた。
煙の返答と行方不明の懸念
「博士か」と煙は言い、「そうだね、海を渡った、と手紙にあった」と、金ボタンと目を合わせずに答えた。鳥の巣とその妹からの手紙は、まだ届いていない。他国の協力者と連絡を取っていたのは美丈夫だったが、彼からも何の音沙汰もない。無事に国境を越えられたのか、煙も金ボタンも気にかけていたが、あえてその話題には触れないようにしていた。静かな時間が流れる中、二人の心には、過去の傷と現在の不安が絡み合っていた。



