戦争が引き裂いた家族と祖母への恩 福井の女性が語る記憶
戦争が引き裂いた家族と祖母への恩 福井の女性が語る

1940(昭和15)年、中国・大連に生まれた木村芙美子さん(86)=福井市冬野町=は、終戦と引き揚げを幼い身で経験した。華やかな暮らしから一転、家族を次々と失った。祖母に連れられて日本へ戻り、女手ひとつで育ててもらった。その記憶は、今も決して薄れることはない。

戦後90年へ 福井の記憶

先の大戦以降に生まれた人は日本の人口の9割を占め、戦争の記憶を持つ人はわずかとなった。一方で、世界では戦火が絶えず、混迷はむしろ深まっている。戦争体験の記憶は、日本人の平和を願う心の核であり続けてきたが、次第に薄れつつある。戦後80年から90年へ。平和への思いを次世代につなぐため、福井の記憶を掘り起こし、それを語り継ぐ人々を記録する。

大連での裕福な暮らし

祖父の北野定四郎さんは大正期、旧丸岡町(現坂井市)から大連へ渡り、繁華街で「マルキタ」と呼ばれた商業ビルを構えた。1階でフルーツパーラーと喫茶店、2階でレストランとダンスホールを営み、50人もの従業員を抱えた。父の優太郎さんは、飛行機免許を持つ「モダンボーイ」。3歳の芙美子さんを飛行機に乗せ、青いオープンカーを走らせる裕福な暮らしだった。

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終戦と家族の喪失

ところが終戦間際の45年7月、父は病を抱えながら召集され、そのまま戦病死した。翌年には母も結核のため大連の病院で息を引き取り、大黒柱だった祖父も続けざまに亡くした。一家は芙美子さんと妹、弟の幼い3きょうだいと、祖父の後妻に入った祖母の北野ミエさんだけになった。

祖母とは血のつながりはなかった。それでも「恩義ある夫の孫を捨てられない」と、地元の熊本へ帰ることをやめて、きょうだいと現地に残った。

日本への引き揚げ

47年3月、祖母は3人の子どもを連れ、貨物船に乗って日本へ向かった。たどり着いた福井では頼る親族もなく、「子どもたちと死ぬしかない」と思いつめたという。最後に踏みとどまり、鯖江市にあった引き揚げ者のための「神明寮」に入った。

「神明のばあちゃん」

祖母は、病院の前でふかし芋を並べて売り、寮内で小さな売店を開いた。電車で仕入れに向かうと、油じみのついた品物を詰めたリュックは強烈な臭いを放った。「臭いが強くて誰も近寄らなかったらしいです」。祖母は、つけで買った住民に強く取り立てることはなかった。子どもたちには「貧乏でも胸を張れ」と言い聞かせ、地域の人たちからは「神明のばあちゃん」と慕われた。

戦争が引き裂いた家族

ある日、父の友人が寮にやってきた。貧しい暮らしを見て、「子どもを一人なら育てられる」と言った。芙美子さんは嫌がったが、妹は「おじちゃん家は畳はあるの? 障子はあるの?」と尋ね、「あるよ」と返ってくると、迷わずついて行った。そのまま妹は横浜市で育った。「妹はよっぽど貧しい暮らしがしんどかったんでしょうね」

祖母への感謝と後悔

祖母は芙美子さんが20代の頃、脳卒中で倒れ、数年後に亡くなった。「熊本に帰りたいと言っていたけど、貧しくてかなえてあげられなかった。おばあちゃんにもらったご恩の、10分の1も返せていない」。後悔は今も尽きない。

「戦争だけは絶対にしたらあかん」

夫の義彦さん(86)は「彼女は体は小さいが、芯の強い子だと思った」と振り返る。義彦さんも継母に育てられた。境遇の似た二人は、寄り添いながら人生を歩んできた。

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芙美子さんは静かに語る。「若い人たちには、戦争の本当の厳しさは分からないと思う」。穏やかな表情が急に厳しくなった。「戦争をすれば、私たちのような思いをする人が必ず出てくる。戦争だけは絶対にしたらあかん」。言葉ににじむ思いは、想像が及ばないほど深く、重い。