ソーセージ伝道師の眠る地で広がる記憶継承の輪
日本の食卓にソーセージやホットドッグの味を伝えたドイツ人、ヘルマン・ウォルシュケさん(1893~1963年)が、東京都狛江市の曹洞宗泉龍寺の墓地に静かに眠っています。第1次世界大戦中に中国・青島で日本軍の捕虜となり、日本に渡ったウォルシュケさんは、来日から1世紀余りを経た今、その功績を次世代に伝える動きがゆかりの地で着実に広がっています。
甲子園でホットドッグを普及させた先駆者
「甲子園球場で、ヘルマンさんがソーセージをパンにはさんで売ったところ、大人気の食べ物になりました」。これはヘルマン・ウォルシュケさんを題材とする紙芝居の印象的な一幕です。1934年(昭和9年)、日米親善野球大会のためにベーブ・ルースが来日した甲子園球場(兵庫県西宮市)で、ウォルシュケさんがホットドッグを国内で初めて販売したと伝えられています。2008年の選抜高校野球大会では、この歴史を偲んで復刻版の「甲子園限定・ヘルマンドッグ」が登場し、多くの野球ファンを魅了しました。
有志団体が紡ぐ記憶の継承
ヘルマン・ウォルシュケさんの紙芝居を監修したのは、狛江市の有志らで構成される「ヘルマン・ウォルシュケさんの足跡をたどる会」です。ウォルシュケさんが死去してから半世紀が経過した2013年に発足したこの団体には、狛江市や近隣地域に住むシニア世代約30名が参加しています。メンバーは月に1回ほど集まり、調査研究をまとめたり講演会を開催したりしながら、ウォルシュケさんの生涯と功績を後世に伝える活動を続けています。
波乱に満ちた生涯と日本での活躍
同会や市の調査によると、ヘルマン・ウォルシュケさんは1893年(明治26年)、ドイツ東部ブランデンブルク州のゼンフテンベルク市で生まれました。第1次世界大戦に出征した後、中国・青島で日本軍の捕虜となり、日本に移送されます。戦後も日本に留まったウォルシュケさんは、故国で培った食肉加工技術を生かし、東京や関西の食品会社などで働きました。
第2次世界大戦後には狛江市に加工場を構え、ソーセージ作りに精力的に取り組みました。しかし、高度経済成長期の1963年(昭和38年)、上野駅で倒れ、69歳でこの世を去りました。現在、その加工場はすでに存在しませんが、ウォルシュケさんの功績は地域の記憶として受け継がれています。
子どもたちに郷土愛を育む紙芝居
狛江市とヘルマン・ウォルシュケさんのゆかりを知らない市民が増えていく中、同会は人々に楽しく分かりやすく知ってもらおうと、紙芝居の制作を企画しました。2024年夏には、幼児から低学年向け(12枚組み)と高学年から大人向け(26枚組み)の2種類を完成させています。
幼児から低学年向けの紙芝居を制作したのは、かつて狛江第五小学校で校長を務めた石谷清隆さん(66歳)です。石谷さんの家の菩提寺が、ヘルマンさんの墓がある泉龍寺であることから、このプロジェクトに深い関心を寄せていました。実際にウォルシュケさんを知る世代ではありませんが、絵を描くことが好きだった石谷さんは、紙芝居の依頼を喜んで引き受けました。
教育現場の知恵を活かした制作手法
「気を付けたのは子どもたちを飽きさせないこと。それには15分がめどです」と石谷さんは語ります。読み聞かせの時間を15分に設定し、絵を12枚にした背景には、小学校教員としての豊富な実体験がありました。「小学校の授業は45分です。子どもたちを集中させるため、教員は15分ずつに区切り、メリハリを利かせて授業を進めています」
絵の輪郭は墨で描き、絵の具や色鉛筆で彩色しました。特にこだわったのは、加工場を常に清潔に保っていたというヘルマンさんの実直な人柄の描写です。「食べ物を作る場所は特別にきれいでなければならないという強い信念がありました」という語りを加えることで、ウォルシュケさんの職業倫理を伝えています。
地域に根差した普及活動
制作後、紙芝居は狛江市内の各種イベントや狛江第五小学校などで披露されてきました。2025年11月には、会代表の飯田吉明さん(88歳)らが市役所を訪れ、紙芝居を正式に寄贈しました。「狛江にこのような人がいたと、子どもたちに郷土愛を感じてもらえれば」という飯田さんの言葉には、次世代に歴史を伝えることの大切さが込められています。
ヘルマン・ウォルシュケさんの生涯を辿る紙芝居は、単なる歴史の記録ではなく、地域の誇りと食文化のルーツを子どもたちに伝える生きた教材として、これからも狛江市の教育現場で活用されていくことでしょう。ソーセージ伝道師の物語は、国際交流と食文化発展の貴重な証言として、新たな世代に受け継がれています。